|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 内 : [うち] 【名詞】 1. inside ・ 義 : [ぎ] 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor
宮内 義彦(みやうち よしひこ、1935年(昭和10年)9月13日 - )は、日本の実業家。兵庫県神戸市出身。 オリックス元会長・社長・グループCEO〔役員情報 〕。日本プロ野球・パ・リーグに加盟するオリックス・バファローズのオーナー。関西学院理事。 == 経歴 == 父の義作は神戸の米国人商館に出入りする木材輸入商社に勤務する貿易商だった〔『文藝春秋』(2005年、新年特別号)182-183頁〕。 神戸市立成徳国民学校(現神戸市立成徳小学校)を経て、山口県玖珂郡大畠町に疎開。鳴門国民学校(現柳井市立鳴門小学校)、佐用町立佐用小学校、関西学院中学部・高等部を経て、1958年関西学院大学商学部卒業〔宮内義彦さん オリックス株式会社代表取締役会長 〕。在学中はグリークラブに所属する〔。1960年、ワシントン大学大学院経営学部修士課程修了(MBA)〔。 1960年8月、日綿實業(日商岩井と共に現在の双日を構成する)入社〔。調査部配属。海外統括部、オリエント・リース設立準備事務所を経て、1964年4月、オリエント・リース(現オリックス)入社〔。 日綿實業は、当時アメリカでニュー・ビジネスとして急成長しつつあったリース業への進出を図っていた。そこで、リース業を学ぶために社員の派遣を決定。ただ1人選ばれたのが20代の宮内だった。帰国して、新会社オリエント・リースの創設メンバーとして出向。13名中の最年少だったが、唯一、リース業の本質を知る人間として社長の誤りさえ遠慮なく指摘し、実務を担った。さらに3年後の1967年、リース業の本質を理解しない本社頼りの営業からの訣別も主導。顧客の独自開発を担う開発課初代課長に就任。本社からの“独立戦争”を主導した宮内自身も本社に戻らず、出向の身分から新会社に籍を移した〔小山唯史「30代の軌跡 宮内義彦」『DIAS』光文社(2001年9月17日号)〕。 1967年6月、企画課長兼大阪本社開発課長兼東京支店開発課長。1969年、社長室長。1970年3月、取締役〔。 1980年12月、代表取締役社長・グループCEO〔に就任。 2000年4月1日、代表取締役会長 兼 グループCEO〔に就任。社長を藤木保彦に譲り、会長へ退く。2003年6月25日、取締役 兼 代表執行役会長・グループCEO〔。 2014年6月24日、取締役 兼 代表執行役会長・グループCEOを退任。シニア・チェアマンに就き、経営陣への助言などを行う。また、オリックス・バファローズの球団オーナーなどは続投する。 2009年1億8300万円の役員報酬を、2013年2億1300万円の役員報酬を受けた〔「"年収1億円超"の上場企業役員443人リスト」 東洋経済オンライン2015年03月18日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮内義彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|