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宮寺敏雄 : ミニ英和和英辞書
宮寺敏雄[みやでら としお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

宮寺敏雄 : ウィキペディア日本語版
宮寺敏雄[みやでら としお]

宮寺 敏雄(みやでら としお、1892年明治25年)3月31日 - 1968年(昭和43年)8月1日)は、昭和時代に活動した日本実業家大同電力取締役、揖斐川電気工業(現・イビデン)社長などを務めた。静岡県出身。
== 経歴 ==

=== 大同電力時代 ===
宮寺敏雄は1892年(明治25年)3月31日〔和田宏 『中部財界人物伝』、中部経済新聞社、1957年、207-223頁〕、宮寺昇作の次男として生まれた〔内尾直二(編) 『人事興信録』第13版、人事興信所、1941年、ミ102頁、〕。出身は静岡県沼津市〔。沼津中学校を経て慶應義塾大学理財科に進み、1915年(大正4年)卒業〔。親戚に銀行家が多かったため周囲から三井銀行への就職を勧められたがこれを断り、日本陶器に入るため名古屋市へ赴く〔。しかし同社への入社が叶わなかったため、福澤桃介に面会して彼が経営する電力会社名古屋電灯株式会社に入社することとなった〔。
名古屋電灯では営業課員として勤務する〔。1918年から翌年にかけては日本陶器の電化工事の担当となり、同社技師で後に日本碍子社長となる江副孫右衛門と知り合う〔。また福澤の発案で名古屋電灯と大阪の大阪電灯、福岡の九州電灯鉄道の3社で社員交換を行った際には、宮寺が名古屋電灯から大阪電灯へと派遣された〔大西理平(編) 『福澤桃介翁伝』、福澤桃介翁伝記編纂所、1939年、401-403頁〕。
1921年(大正10年)2月に福澤桃介を社長として大同電力株式会社が発足したのに伴い名古屋電灯から同社へと転ずる〔登尾源一 『財界の前線に躍る人々』、新興実業社、1935年、457-460頁、〕。初め営業課次長に就き〔〔1923年時点では営業課次長主事。『電気年鑑』大正12年版、電気之友社、1923年、191頁、〕、後に営業課長に昇進した〔〔1932年時点では営業課長理事。『電気年鑑』第17版、電気之友社、1932年、94頁、〕。また1925年(大正14年)8月、大同電力が営む大阪府下の堺市岸和田市などにおける一般供給事業が傍系会社大阪電力株式会社として独立すると、設立に際して宮寺は取締役兼支配人に選出された〔大同電力社史編纂事務所(編) 『大同電力株式会社沿革史』、大同電力社史編纂事務所、1941年、340-348頁〕。以降同社の事業の拡張に努め、専務の木村森蔵が1933年(昭和8年)に死去してからは支配人のまま木村の後任となり経営にあたった〔。1934年(昭和9年)11月末に同社が大同電力に吸収されるまで取締役兼支配人に在任している〔。
1934年12月大同電力取締役に選出〔『大同電力株式会社沿革史』、64頁〕。最終的に同社では取締役兼営業部長を務めた〔『大同電力株式会社沿革史』、67頁〕。しかし大同電力は、電力国家管理政策の実現により国策電力会社日本発送電の設立が決定すると、会社の解散と日本発送電へ資産負債の移譲を決定〔詳しくは大同電力#解散への道参照〕。解散に伴い1939年(昭和14年)3月30日付で宮寺は大同電力取締役を退任した〔『大同電力株式会社沿革史』、453頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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