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宮武外骨 : ミニ英和和英辞書
宮武外骨[みやたけ がいこつ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [そと, ほか, げ, がい]
 【名詞】 1. other place 2. the rest 
: [ほね]
  1. (adj-na,n) bone 

宮武外骨 : ウィキペディア日本語版
宮武外骨[みやたけ がいこつ]

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、慶応3年1月18日1867年2月22日) - 昭和30年(1955年7月28日)は、日本ジャーナリスト新聞記者編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。
明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家官僚行政機関マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字によるアスキーアートを先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディ言葉遊びを執筆したことでも有名。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設した。
== 生涯 ==

=== パロディから反官僚へ ===

讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。
高松栄義塾で漢学を学び、明治14年(1881年)、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学ぶ
17歳の時に戸籍上の本名を "外骨" に改める。幼名の亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物である。正式の本名であるにもかかわらず、のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。
当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年(1889年)、『頓智協会雑誌』で大日本帝国憲法発布をパロディ化して不敬罪に問われ禁錮3年の実刑判決を受けた。未決勾留日数の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。
警察署長の不正や悪徳商法の主(野口茂平)を長期間紙面で晒し上げる一方で日露戦争に対する社説を翻した『万朝報』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合するジャーナリズムに対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。たとえばニコライ教ロシア正教会ニコライ・カサートキンによる伝来であったから、「愚民を惑はすのみならず、常に賣国奴を養成して居る」〔『滑稽新聞』明治37年(1904年)2月15日号(通巻66号)「ニコライ教堂を破壊すべし」 p3〕と非難し、ニコライの逮捕、退会しない信徒の国外追放〔『滑稽新聞』明治37年(1904年)2月15日号(通巻66号)「露犬とニコライ」 p17〕、ニコライ堂の破壊などの弾圧を行うよう主張した。これは当時の世論にある程度影響されたものと言えた。
特に、自らの力を悪用して私欲を働くマスメディアには「ユスリ記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太ゴシック体を使用して強調した)。もっともその主張の中には「味の素の原料は青大将」など、後に結局デマと分かったものもあった(「一癖随筆 」)。
外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。たとえば『滑稽新聞』明治40年(1907年11月20日号で吉田東伍の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の冨山房ともども「文壇の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。12月20日号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。
また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は備中穢多(えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊(きゅうへい)思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』大正6年(1917年)第10号)と反論した。部落差別が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張したのである〔前述にもあるように、父は庄屋であり実際は被差別部落の出身者ではないことをも『つむじまがり』で明かしている。部落差別に抗議する意味で部落民でないのに部落民を自称した点は、中江兆民と軌を一にしている。〕。一方、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」〔『滑稽新聞』第172号、1908年10月5日。〕と呼ぶなどの差別発言を行っていたことも指摘されている〔『宮武外骨著作集』第8巻(河出書房新社)解説「宮武外骨と『穢多』の語」(師岡佑行)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「宮武外骨」の詳細全文を読む




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