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宮田 繁男(みやた しげお、1958年5月3日 - 2014年3月30日)は、日本のドラマー、音楽プロデューサー。 == 概要 == 高校1年生のとき、アマチュア・バンド“ミスター・アフガニスタン”を結成。当初はベースを担当していたが向いていないと感じ、“ちょっとやらせて”とドラムをやってみたところ最初から16ビートが叩け、「あ、俺はドラムだったんだ」と思い、以降ドラムを担当することになる〔『PATi-PATi ROCK'N' ROLL』1993年5月号(ソニー・マガジンズ)52 - 53ページ、パーソナル・インタビュー・シリーズ〕。当初はアメリカなどをコピーしていたが、宮田がドラムを担当してからはデビュー前のシュガー・ベイブをコピーし、ハネたグルーヴを得意とするようになった〔。 青山学院大学入学を機に上京、音楽サークル“Better Days”に入る。宮田が大学1年のときBetter Daysのメンバーを中心に結成されたサザンオールスターズがデビューし、1981年に原由子のソロデビュー時、そのバックバンドとしてサークルの後輩の中から宮田を含む数人が選ばれた。宮田は当時まだ学生だったが原のソロ・アルバム『はらゆうこが語るひととき』〔1981年4月21日発売 LP:VIH-28034〕でレコーディングデビューを果たす。その後サザンの全国ツアーの中で原のソロコーナーがあり、宮田もツアーメンバーとして同行した。 1981年12月11日 - 14日、桑田佳祐が“嘉門雄三とVictor Wheels”を名乗り、渋谷Eggmanで行ったライブに参加する〔『嘉門雄三 & VICTOR WHEELS LIVE!』 (1982年3月2日発売 LP : VIX-1001)〕。以降しばらくはH2OやLady oh!等、アミューズ所属アーティストのバックを担当するようになる。 大学卒業後一度は就職するものの程なく退職し〔、とんねるずのコンサートのバッキングを務め〔中村正人と吉田美和も参加〕、その後Better Daysのサークル仲間だった高浪慶太郎と小西康陽を中心に結成されたピチカート・ファイヴのサポートを担当する。 1990年8月、オーディションでオリジナル・ラヴに参加し、1993年12月末まで在籍した。1994年秋、ほぼ同時期にオリジナル・ラヴを離籍した村山孝志、事務所のオーディションに合格した田仲玲子と共にファースト・インプレッションを結成、2枚のアルバムをリリースし(「WHAT’S NEW」(1995年、EPCA7004)、「supernatural」(1996年、EPCA7008))、1996年に活動を終了した。 その後はドラマーとして多数のセッションに参加のほか、アレンジやプロデュースも数多く手がけるようになる。2008年からは“soft soul of illadelphia”〔2010年より名称を“soft soul”に変更〕のメンバーとして活動していた。 演奏時、左手のスティックをひっくり返して持つ。 晩年は病気療養ののち、2014年3月30日午前5時27分に死去した〔元オリラブ宮田繁男さん死去「ユーミンも悲しんでる」 、2014年4月1日、スポニチアネックス、2014年4月1日閲覧。〕。55歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宮田繁男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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