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寺原 隼人(てらはら はやと、1983年10月9日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。 == 経歴 == === プロ入り前 === 1983年10月9日に宮崎市で生まれた〔1.ポジションはもちろん投手 兄の影響で小3から野球チーム 以来、道は“一筋” 2011年11月22日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人〕。職場で野球をやっていた父や6歳上の兄の影響で宮崎市立本郷小学校3年生の時に軟式野球のワールドボーイに入団して野球を始めて小学校5年生になると6年生を押しのけてエースとなった〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(1) 泣き声も“剛速球”な赤ん坊 日刊スポーツ九州〕〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(2) 体格も技術も図抜けた小学生 日刊スポーツ九州〕。宮崎市立赤江東中学校では軟式野球部に入り、1年目は制球難を克服するため下半身を鍛え、2年秋には宮崎県大会決勝戦で完封勝利を果たした〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(3) 中学では生徒会長に 日刊スポーツ九州〕。3年夏には4番・エースとして県大会で優勝し〔3.県大会V 仲間とのきずな深めた自主トレ 2011年11月24日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人〕〔日南学園寺原・松坂超えだ 「進化」続ける155キロ右腕 2001年7月2日 日刊スポーツ九州〕、九州大会でも2位となって宮崎県勢15年ぶりの全国大会に出場となったが、初戦で東海代表の長泉北中に敗れた〔4.宣言 甲子園目指し日南学園へ 2011年11月25日 西日本スポーツ新怪物伝説 寺原隼人〕〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(4) 大きかった小川監督との出会い 日刊スポーツ九州〕。 日南学園高等学校では入学時に球速135km/hを超えていた。1年春の九州大会では対瓊浦高等学校戦で中継ぎ登板したが2回3失点のデビューだった〔。甲子園を目指すため小川茂仁監督の下でアーム式の投法から肘を上げるフォームへの変更に取り組んだ。2年夏には最速140km/h台となったが夏の県大会では準決勝で宮崎日大に敗れて敗退〔日刊スポーツ・野球・第82回全国高校野球・地区予選・宮崎結果 〕、2年秋の県大会は優勝し、九州大会では最速147km/hを記録したが準々決勝で神崎高校に1対4で敗れた〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(5) チーム内ライバルが成長の糧 日刊スポーツ九州〕〔。この頃急激な成長に捕手が追いつけずバッテリーエラーを繰り返していた。 、3年春から捕球の巧い中原幸広捕手に変更し、春の県大会では準決勝の対延岡学園戦で後の同僚・神内靖と投げ合い球速153km/hを記録した〔夢の160キロへ 寺原ストーリー(6) 高校最速155キロを記録 日刊スポーツ九州〕。決勝戦は2安打に抑えながらも1対2で宮崎日大に破れた〔。6月にサンマリンスタジアム宮崎で行われた市立船橋との練習試合で当時の高校生最高球速となる155km/hを記録した〔。3年夏の県大会〔日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球・地方大会・情報 〕の3回戦(7月18日・対日南振徳商戦)では新たに覚えた120km/h後半の高速カーブを交えて15奪三振でノーヒットノーランを達成した〔日南学園寺原、ノーヒットノーラン/地区大会 日米13球団のスカウトの前で150キロ披露 2001年7月19日 日刊スポーツ九州〕。決勝戦では9回3失点の完投勝利で宮崎日大を破って3年ぶり3度目の甲子園出場に導いた〔日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球・地方大会 〕。同級生の井手正太郎も3番打者で同大会7打点と寺原を支えた。 8月7日に右手中指の靭帯炎症がで練習を中断していたが〔寺原、投球練習2球でストップ 右手中指に違和感 2001年8月7日 日刊スポーツ九州〕、 第83回全国高等学校野球選手権大会は8月11日の四日市工との1回戦では先発して8回を1失点に抑え、ニューヨーク・メッツスカウトのスピードガンで初球に153km/h、22球目に155km/hを計測したがテレビ中継画面の表示は甲子園タイ記録の151km/hだった〔日南学園・寺原8回10K 出た!155キロ 2001年8月12日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球〕。8月16日の岡山県立玉野光南高等学校との2回戦では前夜に発熱していたものの同点の5回裏から登板し、2イニング目の6回にアトランタ・ブレーブススカウトのスピードガンで98mph(約157.7km/h)を計測、テレビ中継では154km/hと表示され当時の甲子園記録を塗り替え、6イニングを3失点にまとめて延長戦で勝利した〔日南学園・寺原が157.68キロ 2001年8月17日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球〕。8月17日に大阪市内の病院で点滴を受けブルペン待機となったが、チームは20安打15得点の完封リレーで3回戦を突破した〔日南学園・寺原、準々決勝は待ち望んだ相手 2001年8月19日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球〕。8月19日に行われた準々決勝の対横浜高校戦では最速150km/hは出たものの、2回以降の直球の約8割が130km/h台と苦しみ、同点で迎えた9回に3四球で満塁とした所で決勝打を浴びて敗れ、ベスト8に終わった〔 2001年8月20日 日刊スポーツ・野球・第83回全国高校野球〕。翌日8月20日に大阪市内の病院で検査の結果、右足内転筋の肉離れと診断され〔寺原、右足肉離れ 高校日本代表入り微妙に 2001年8月21日 日刊スポーツ九州〕、AAAアジア野球選手権大会日本高校選抜を辞退した〔寺原の意中球団発言に高野連注意 日南学園、小川監督に注意 2001年8月22日 日刊スポーツ九州〕。 台湾で行われた第34回IBAFワールドカップに日本代表として出場した。プロ・アマ合同の同大会で高校生が日本代表として選出されたのは史上初であった〔寺原きょう帰国、次はドラフト 2001年11月18日 日刊スポーツ九州〕。11月7日第1戦の対フィリピン戦では15点リードの5回から2番手で登板して2イニングを無失点4奪三振に抑えた〔寺原世界デビューは2回4K 最速149キロ直球見せた 2001年11月8日 日刊スポーツ九州〕。11月13日に下痢と発熱で体調を崩したが〔原因不明の下痢で投げられない~ 2001年11月14日 日刊スポーツ九州〕、11月14日第7戦の対オランダ戦では8回3点リードから2番手で登板し、8回はダーク・ファンクルースターの打球が右足首を直撃しながらも無失点で抑え、9回にライリー・レヒトに2点タイムリー打を浴びたが後続を断ってセーブを記録し、チームは予選リーグ全勝で終えた〔9.世界挑戦 すべてが勉強、経験は財産 2001年11月30日 西日本スポーツ 新怪物伝説 寺原隼人〕〔寺原147キロ!下痢も封じた! 2001年11月15日 日刊スポーツ九州〕。プロ野球ドラフト会議の為、3位決定戦を前に帰国した〔。 11月19日に行われた2001年のドラフト会議で、4球団(ダイエー・中日・巨人・横浜)から1位指名を受けるが抽選の末、3番目に引いた王貞治が率いるダイエーが交渉権を獲得した〔ダイエー寺原、今日にも誕生 「光栄です。長くかからない」 2001年11月20日 日刊スポーツ九州〕〔「寺原は即戦力」 ダイエー交渉権獲得 2001年11月20日 西日本スポーツ〕。なお、これまで王が4度引いたドラフトのくじで初めて交渉権を獲得した選手となった〔寺原2月の練習試合でデビュー 2002年1月7日 日刊スポーツ九州〕。11月20日の指名挨拶には王と中内正オーナーが訪れ〔ドラフト会議 福岡ダイエー 九州の剛腕獲った 寺原「光栄です」 2001年11月21日 西日本スポーツ〕〔寺原、着た!ダイエー姿だ ドラフト一夜グッズ拒否一転 2001年11月21日 日刊スポーツ九州〕、11月27日にダイエーへの入団を表明した〔寺原入団表明!全タイトル奪取だ 2001年11月27日 日刊スポーツ九州〕。12月4日に井手・神内らと共に入団会見を行い、背番号は20に決まった〔寺原、年俸でも松坂越えだ! 2001年12月5日 日刊スポーツ九州〕。12月5日のメディカルチェックでは右肩の可動域の狭さを指摘された〔寺原、ストレッチで右肩矯正 福岡市内の病院でメディカルチェック 2001年12月6日 日刊スポーツ九州〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「寺原隼人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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