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対立教皇(たいりつきょうこう、、)は、キリスト教の歴史において、正当な教皇に対抗してたてられた教皇のこと、あるいはローマ教皇であることを宣言しながらも、同時代人あるいは後世の人からその地位が正統なものであると認められなかった人々のこと。 通常、対立教皇というのは教皇選挙者たち(中世以降は枢機卿団)によって、ある人物が教皇に選ばれたあとでそれに反対する人々によって立てられることが多い。一般的に対立教皇ということばは古代から中世にかけての歴史用語であるが、近代以降であっても教皇空位主義者(後述)などで教皇を自称する人々を広義での対立教皇と呼ぶこともある。 == 歴史的経緯 == 史上初めて現れた対立教皇とされるのは3世紀にローマのキリスト教徒が分裂したことで立てられたヒッポリュトスである。彼はカリストゥス1世に対抗して立った対立教皇であった。ヒッポリュトスは後にカリストゥス1世の後継者ポンティアヌス教皇と共にどちらが正統な教皇なであるかということについて争ったが、ローマ皇帝の迫害によって二人ともサルデーニャ島の鉱山での強制労働に送られている。サルデーニャ島から帰ることができたヒッポリュトスは死の直前になって、対立していた教会の指導者たちと和解したため、対立教皇でありながら後に列聖されている。 10世紀以前の対立教皇があらわれた理由は教皇選挙制度が不完全であり、きちんと確立されていなかったことによる部分が大きい。選挙システム自体が不完全だったため、教皇選挙者たちが分裂するような状況に陥ると機能不全をおこし、対立するグループが自分たちの立てた教皇こそ真正であると各々言い張るようになっていたのである。このような選挙の場合は対立と混乱が終始したあとで、どちらかの教皇が、選挙者たちの多数の賛成が得られていないという理由によって対立教皇であるとみなされることになった。 対立教皇がもっとも多く出現することになったのは11世紀から12世紀にかけてである。その背景にはカトリック教会を意のままに操ろうとした神聖ローマ皇帝と、それに反発した教皇庁の対立があった。神聖ローマ皇帝は自分の政治意図を実現するため、しばしば対立教皇を立てることでローマ教皇を脅かした。しかし、同時に神聖ローマ皇帝に対抗する権力がこれに反発してローマ教皇に肩入れすることになったため、思ったほどの効果を得られなかった。 次に対立教皇がたったのは14世紀から15世紀にかけてであるが、この時期はアヴィニョンに移った教皇庁がローマに戻ったあとで、再びアヴィニョンに教皇が立ち、ついにはピサに第三の教皇が立つなど混乱を極め、カトリック教会は分裂・瓦解の危機に瀕していた。これを教会大分裂(西方大離教)という。これを機会に、カトリック教会の構造改革の必要が叫ばれることになり、16世紀に起こる宗教改革の一つの伏線となった。 しかし、単純に対立教皇といっても、あくまでも後世の判断による部分が多く、同時代の人々はどちらが対立教皇でどちらが正当な教皇だとはっきり区別していたわけではない。彼らにとっては、当然自分たちが支持する人物こそが正当な教皇であり、支持していない人物は対立教皇であった。 史上、最後の対立教皇となったのはバーゼル公会議の分裂によってたてられたフェリクス5世であったが、彼は1449年に退位した。その後、英国の宗教改革によるローマからの分離、復古カトリック教会運動、中国における愛国者教会などローマ教皇の権威を否定する分離運動は起きているが、それらは教皇制そのものを否定しているため、独自の教皇をたてることはなかった。 現在の教会法では、正当な手続きを経ずに教皇を名乗る行為は、教会の分裂を引き起こす重大な行為であるとみなされ、破門されることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「対立教皇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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