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小林 喜三郎(こばやし きさぶろう、1880年12月10日 - 1961年2月20日)は、日本の実業家、映画プロモーター、映画プロデューサーである。D・W・グリフィス監督の超大作サイレント映画『イントレランス』を日本で公開し、当時破格の高額入場料「10円興行」を打ち、成功を収めたことで知られる。 == 人物・来歴 == 1880年(明治13年)12月10日、茨城県に生まれる〔コトバンクサイト内の記事「小林喜三郎 」の記述を参照。〕。 1910年(明治43年)、29歳のころ、映画会社・福宝堂の取締役営業部長に就任した〔。フランスの探偵映画『ジゴマ』を買いつけ〔、『探偵奇譚ジゴマ』の題で1911年(明治44年)11月、浅草公園六区の金龍館で公開、大ヒットなる。同館を経営する根岸興行部にパイプを築く。ジゴマの小林、腕の喜三郎の異名をとる。 1912年(明治45年)4月、福宝堂が4社合併により日活となると、小林は同社の本社営業部に席を置いた。浅草公園六区に根岸興行部が経営する常盤館から、日活の新作の滞りを指摘されると、同年12月、常盤商会を設立、日暮里に撮影所を開業、独自の作品を製作・供給した。1914年(大正3年)3月17日、小林は福宝堂関西営業部長であったときからの盟友・山川吉太郎とともに天然色活動写真(天活)を設立、常盤商会はこれに吸収された。 1914年(大正3年)1月、天活の配給・興行を行なう小林商会を設立、1915年(大正4年)には三葉興行を設立した〔〔#外部リンク欄の「三葉興業」公式サイトを参照。二重リンクを省く。〕。 1917年(大正6年)6月30日には、小林商会が、日本初のアニメーション映画のひとつ、幸内純一監督の『塙凹内名刀之巻』を発表したが、同年倒産した。 1919年(大正8年)3月、D・W・グリフィス監督の超大作スペクタクル映画『イントレランス』(1916年)の日本での興行に打って出た。入場料を「10円」という高額に設定、大ヒットした。この興行で得た資金で、国際活映を同年12月16日に設立した。1920年(大正9年)11月8日に設立された帝国活動写真(松竹の前身の一社)の取締役に名を連ねる。国活は、1925年(大正12年)には倒産した。 のちに日活の経営などにも関与する〔。 1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後は日活で監査役をつとめた〔。 1961年(昭和36年)2月20日、死去した〔。満80歳没。小林が設立した三葉興行は現在、三葉興業株式会社として新宿区に本社を置き、渋谷区に映画館「渋谷シネパレス」を経営している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小林喜三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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