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尾崎士郎 : ミニ英和和英辞書
尾崎士郎[おざき しろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [お]
 【名詞】 1. tail 2. ridge 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)

尾崎士郎 : ウィキペディア日本語版
尾崎士郎[おざき しろう]

尾崎 士郎(おざき しろう、1898年(明治31年)2月5日 - 1964年(昭和39年)2月19日)は、日本小説家
愛知県幡豆郡横須賀村(現西尾市)生まれ。早稲田大学政治科を中退し、大逆事件真相解明の目的で売文社に拠る。同社を本拠に活動していた高畠素之を追って国家社会主義に身を投じる。1921年(大正10年)に時事新報の懸賞小説で、大逆事件を取材した『獄中より』が第二席で入選し、以後本格的に小説家として身を立てる様になる。1933年(昭和8年)から都新聞に『人生劇場』を連載し、文芸懇話会賞を受賞。これが大ベストセラーとなって以後20年以上も執筆し続ける大長編となる。その一方で戦前に雑誌『文芸日本』、戦後に『風報』を主宰した。
早くに右傾し、軍国主義鼓吹の小説や著作を多く書いたため、戦後公職追放となるが、以後は文壇から距離を置き、実業家などとのつきあいが多かった。川端康成とは関東大震災の翌年1923年(大正12年)に出会って以来からの変わらぬ親友であった〔尾崎士郎『人間随筆』(六興出版部、1957年)〕〔川端康成「人間随筆」(中央公論 1964年5月号に掲載)。に所収。〕〔郡司勝義「解題」()〕。
また『石田三成』『真田幸村』『篝火』などの歴史小説も書いたほか、相撲にも詳しく、長編小説『雷電』など相撲関係の著作もあり、横綱審議委員を務めた。酒豪でもあった。大腸癌により66歳で亡くなったが、その直前に闘病記を遺した。文化功労者が追贈された。弔辞は川端康成が読み哀悼の意を表した〔川端康成「川端日本ペンクラブ会長の弔辞」(サンデー毎日 3月8日号に掲載)。「尾崎士郎弔辞」としてに所収。〕。
== 人物 ==
尾崎が『獄中より』で第二席を取った時事新報の懸賞小説で、第一席だったのが宇野千代の『脂粉の顔』である。受賞の翌年、中央公論社で偶然会った2人は、宇野のひと目惚れによってその日から同棲を始めた。宇野は後年のインタビューで、「尾崎は人に非常に好かれる人で、自分もまた好かれたがる人だった。それが彼の人生を駄目にした」と語っている〔『カルチャーラジオ NHKラジオアーカイブス 宇野千代 第三回「我が文学我が回想(1)」 』(1986年10月26日放送にての本人談。2013年2月19日再放送)〕。
川端康成を通じて伊豆湯ヶ島温泉で知り合った梶井基次郎とは、馬込文士村において、妻の宇野千代を巡って関係が険悪となり〔〔〔鈴木貞美「湯ヶ島の日々」()〕、その後尾崎と千代は離婚となった〔〔〔。
一枝という娘があったが、尾崎一雄にも同年配の一枝という娘がおり、いずれも早稲田大学へ入ったためよく混同された。のち2人とも結婚して姓が変り、共著を出している〔中村一枝,・古川一枝『ふたりの一枝』(講談社、2003年9月)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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