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尾張 大隅(おわり の おおすみ〔旧仮名遣いでの読みは「をはりのおほすみ」。〕、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある〔宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年〕。位階は贈従五位上。 672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)に私宅を提供した。 == 経歴 == 『日本書紀』が壬申の乱を記す中に尾張大隅の名は現れない。大隅の功績は、『続日本紀』天平宝字元年(757年)12月9日条にある。それによれば、大海人皇子(天武天皇)が吉野宮を脱して関東(この場合鈴鹿関の東)に行ったとき、尾治大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けたという。書紀にある大海人皇子の行動記録と照らし合わせてこの行宮の場所は美濃国の野上とするのが有力だが、これを伊勢国で鸕野讚良皇女(持統天皇)が住んだところとする説もある〔野上宮とするのは江戸時代の河村秀根(『書紀集解』巻28、臨川書店版第4冊1677頁)など。新日本古典文学大系版『続日本紀』は野上との関係は不明とする(第3分冊241頁注11)。〕。 天武天皇13年(684年)12月2日に、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられた〔『日本書紀』巻29、天武天皇13年2月己卯(2日)条、新編日本古典文学全集版第3分冊440-441頁。〕。 持統天皇10年(696年)5月8日に、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えた〔『日本書紀』巻30、持統天皇10年5月己酉(8日)条、新編日本古典文学全集版第3分冊556頁。〕。 霊亀2年(716年)に子の尾張稲置が大隅の功によって田を授かったことを記す『続日本紀』の記事中で、大隅は贈従五位上と記される〔『続日本紀』巻7、霊亀3年4月癸丑(8日)条、新日本古典文学大系版第2分冊8-9頁。〕。「贈」とあるため大隅がこのとき故人であったことがわかり、従五位上は大宝元年(701年)以降に用いられたから、没年は701年から716年の間と推測できる〔新編日本古典文学全集『日本書紀』第3分冊556頁注1。〕。 後、天平宝字元年(757年)12月9日に、太政官は尾治大隅の功田40町の内容を論じ、それが上功にあたり、三世に功田を伝えると定めた〔『続日本紀』巻20、天平宝字元年12月壬子(9日)条、新日本古典文学大系版第3分冊240-241頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾張大隅」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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