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尾瀬原ダム計画(おぜがはらダムけいかく)とは、一級河川・阿賀野川水系只見川の最上流部、水源である尾瀬(尾瀬ヶ原、現・尾瀬国立公園)に計画されていたダム計画である。当初は水力発電単独、後に利根川水系へ分水して首都圏の水需要を賄う目的も考慮された「尾瀬分水計画」の中核事業であった。 只見川が尾瀬ヶ原より流出する地点に、堤高 85.0 m のロックフィルダムとして計画されていた。仮に完成すれば奥只見ダム・田子倉ダムに次いで只見川では第3番目の規模となるが、完成すれば尾瀬は完全に水没していた。このため自然保護の観点、及び流域都県の水利権についての利害対立により反対意見が噴出し、1966年以降計画は凍結された。事業主体の東京電力も最終的にダム計画を完全に断念し、1996年には尾瀬沼の水利権のうち尾瀬原ダムに関連する部分を放棄している。 この尾瀬原ダム計画を機に、日本の組織的な自然保護運動が誕生した。 == 沿革 == 只見川流域は急流で、かつ豊富な降水量によって流量は極めて多く、さらには落差も大きいため明治時代以来水力発電の有望な地点として注目されていた。1911年(明治44年)電気事業法が施行されると福澤桃介や松永安左エ門、浅野総一郎などによって本格的な水力発電開発が行われ、大井ダム(木曽川)や小牧ダム(庄川)など大規模なダム式発電所が盛んに建設されるようになった。 当時関東地方において水力発電を推進していた関東水電株式会社は、こうした風潮の中で豊富な水量と高落差を有する尾瀬に着目、ここにダムを建設して水力発電を行おうと考えていた。そして1919年(大正8年)、尾瀬沼にダムを建設するために水利権を獲得すべく河川管理者である群馬県知事に対して水利権の申請を行った。当時は旧河川法の規定で、河川管理は原則都道府県知事が行うものと定められていたため、知事への申請となった〔現在は国土交通大臣に申請。〕。 電源開発は富国強兵の理念に叶っており、当時工業生産が盛んになりつつあった日本経済を牽引するために必要不可欠であった。このことから、当時原内閣の内務大臣であった床次竹二郎は群馬県に対し関東水電の水利権申請を認めるように強力に推進した。内務省は地方自治を統括する官庁であり、かつ河川管理においても河川改修を直轄で実施するなど両方の立場からこの問題に対する関係が深かった。こうした内務省の強力な後援もあり、1921年(大正10年)に関東水電は尾瀬沼の水利権を獲得した。その後、電力業界の合併が進み、水利権は東京電燈が所有するようになった。 昭和に入ると、戦時体制の進行に伴い重化学工業を中心にさらなる産業育成が求められ、これに伴い電力供給が不可欠となった。電力行政を管轄していた逓信省〔現在の経済産業省。〕は全国の河川において1937年(昭和12年)より1941年(昭和16年)までの約四年間、第三次発電水力調査を実施した。この調査では、当時の内務省土木試験所長でダム技術の第一人者であった東京帝国大学教授・物部長穂が、河水を総合的に利用するため水系を一貫して開発し産業振興を図る目的で提唱した「河水統制計画」案も参考としており、このなかで尾瀬原ダム計画は只見川の一ダム計画から利根川・信濃川という日本の二大河川を巻き込んだ大規模な開発計画へと変わっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「尾瀬原ダム計画」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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