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宇多 頼忠(うだ よりただ)は、安土桃山時代の武将、大名。通称は下野守。宇田とする説もある。初名は尾藤二郎三郎、または久右衛門と称した。 == 生涯 == 尾藤重吉の子として誕生。兄に尾藤知宣などがいる。 尾藤氏はもともと信濃国中野牧を本拠とし、信濃守護・小笠原氏に臣従していたが、小笠原長時が武田信玄に敗れて所領を失い没落すると、本拠を遠江国引佐郡に移し今川氏に従ったとみられる。桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、父・尾藤重吉と長兄・又八郎は森可成、次兄・知宣は羽柴秀吉とそれぞれ織田氏の家臣に仕えたが(のち、重吉と又八郎は可成と共に宇佐山城の戦いで戦死している)、頼忠は引佐郡に当主として残り、のちに武田氏に臣従した。また、永禄7年(1564年)頃には、政略結婚のため武田氏家臣・真田昌幸に長女を嫁がせ、忠誠を誓ったと考えられる。 ところが長篠の戦いで武田氏が遠江国で勢力を失うと、頼忠は所領を捨てて兄・知宣を頼って近江国長浜城へ赴き、その紹介で羽柴秀長の家臣となった。『竹生島奉加帳』には兄・知宣と共にその名が残っている。 秀吉や秀長の出世と共に累進し、秀吉が天下を取って秀長が100万石の領主として大和郡山城に入った頃には、家臣団の中でも藤堂高虎に次ぐ1万3,000石を領する重臣となっていた。なお、石田三成に次女皎月院を嫁がせたのは白川亨「石田三成とその子孫」によれば「津軽家史料」で二人の間に生まれた最初の子である長女(山田隼人正の妻)は関ヶ原の時点で22歳だったと記載されているので、逆算すると本能寺の変の前と推定されている。 兄・知宣が九州征伐で秀吉の不興を買って改易され、後に小田原征伐の時に斬殺されると、頼忠は宇多と改姓して婿の三成のもとに身を寄せた(この時に1万3,000石を返上したという説が有力)。 慶長5年(1600年)9月17日、関ヶ原の戦いの後、三成の居城であった近江佐和山城は東軍に攻撃され、頼忠は息子の頼重、三成の父・正継、三成の兄・正澄らと共に自害した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇多頼忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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