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山吉 久盛(やまよし ひさもり、生没年不詳〔後世系図の『山吉家家譜』では山吉義長の別名が久盛と加筆され、生年が応永22年(1415年)、没年が文明2年(1470年)とされている。しかし山吉氏の戦国以前の系譜は信がおけないと指摘する研究(『三条市史』136頁)もあり、生年を含めた『山吉家家譜』の記述と一次史料からの久盛の活動時期には齟齬がある。元禄16年(1703年)に写され、成立年代が最も古く、比較的信頼度が高いと(『戦国大名論集 上杉氏の研究』82頁)評価されている『山吉家伝記之写』には久盛の記載はない。久盛の記載のある他の後世系図(『越後三条山吉系図』等)でも、兄弟等記事の内容の異同は大きい。〕)は室町時代の武士。応永の乱時の越後国三条城主。通称大炊助。 == 概要 == 子は山吉正盛。応永30年(1423年)に勃発した応永の乱では、山吉氏は守護代長尾邦景の有力被官として、守護方の中条房資らと対峙することとなった。邦景方の内部分裂などにより、翌年には乱は一旦休止するが、その間の応永31年(1424年)、中条氏の分家金山氏分の段銭請取状に署名しているのが、久盛の初見史料である。 その後、越後は再び争乱となり、享徳3年(1454年)にまとめられた「中条秀叟(房資)記録」によれば、応永33年(1426年)、守護方の攻撃を受けながらも三条城を守りぬいた。この乱は最終的には邦景方が勝利し、山吉家の守護代から与えられた諸権利も守られた。 文安元年(1444年)、本成寺に対して打渡状を出しているほか、長尾実景から本成寺に出された遵行状の宛先として、文安3年(1446年)までその存在が史料上確認できる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山吉久盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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