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大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。大山巌の妻。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。愛国婦人会理事。赤十字篤志看護会理事。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === 安政7年(1860年)、会津若松の生まれ。父は会津藩の国家老・山川尚江重固(なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英(ひょうえ しげひで)が、後には長兄の大蔵(おおくら、後の山川浩)が父親がわりとなった。 知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争だった。慶応4年(1868年)8月、板垣退助・伊地知正治らが率いる新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていたが、さきはこれも手伝って大怪我をしている。すぐそばでは大蔵の妻が重傷を負って落命した。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)だった〔ただし大山は若松城攻撃の初日に負傷し翌日後送されており、実際に若松にいたのは2日のみである。(児島襄『大山巌』文春文庫(第一巻)281頁-296頁)〕。 近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏した。会津23万石は改易となり、1年後に改めて陸奥斗南3万石に封じられた。しかし斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかり、実質石高は7,000石足らずしかなかった。藩士達の新天地での生活は過酷を極めた。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の沢辺琢磨のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大山捨松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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