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山本 功児(やまもと こうじ、1951年12月25日 - )はプロ野球選手、監督。ポジションは一塁手、外野手。左投げ左打ち。大阪府堺市の出身で、長男は2016年シーズンから内野手(育成選手)として横浜DeNAベイスターズに所属する山本武白志(やまもと むさし)〔(『スポーツニッポン』2015年11月16日付記事)〕。 == 来歴・人物 == === プロ入りまで === 実家が当時の南海ホークスの練習場であった中百舌鳥球場と選手寮(秀鷹寮)の近くでパン・菓子屋を営んでおり、幼少期は南海選手から可愛がられていたと、皆川睦雄が野球中継解説時に語っている。また実父は当時の監督であった鶴岡一人と懇意にしており、二軍選手はもちろんのこと、上記の皆川以外にも杉浦忠、穴吹義雄、野村克也らの主力選手もからもよく声をかけられていて、「功児、合宿所に遊びに来い」と度々誘いを受け、選手寮の食堂で選手たちと食事をともにするだけでなく、帰る前に湯船に浸かっていくこともあったという。その中でも特に可愛がっていたのは穴吹で、堺市の浜寺公園にあった自宅にも、ちょくちょく招いてもらっていた〔『巨人・ロッテの低迷期を支えた男 山本功児 なんとなく幸せ』- 東京スポーツ 2012年10月18日 〕。 三田学園では1年生からレギュラーとなる。エース吉岡邦広を擁し、五番打者、一塁手として1967年夏の甲子園県予選決勝に進出するが、報徳学園に敗れる〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。3年次に1969年の春の選抜に出場。準々決勝に進出するが、堀越高の但田裕介投手(阪神)に抑えられ、1-2で惜敗〔「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年〕。同年夏は県予選準々決勝で滝川高に敗退〔。1年下のチームメートに淡口憲治がいた。1969年のドラフト会議で南海ホークスから3位指名(1位は佐藤道郎、2位は門田博光)を受けるも拒否。 法政大学経営学部に進学。東京六大学リーグでは2年生までに3度の優勝を経験するが、その後は優勝に届かなかった。リーグ通算86試合出場、282打数79安打、打率.280、3本塁打、44打点。ベストナイン2回。1972年、1973年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。 卒業後は本田技研鈴鹿に入社。1974年には西濃運輸、1975年には新日鐵名古屋の補強選手として都市対抗野球大会に連続出場。1974年の第1回社会人野球日本選手権大会にも出場し、本塁打を放った。1975年には第2回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出されている。同年のドラフト5位で読売ジャイアンツに入団した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本功児」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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