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岡 潤一郎(おか じゅんいちろう、1968年12月7日 - 1993年2月16日)は日本中央競馬会の元騎手。北海道様似郡様似町出身。愛称は「ジュンペー」。 == 来歴 == 北海道浦河高等学校を中途退学後に競馬学校に入学。1988年に栗東トレーニングセンターの安藤正敏厩舎所属の騎手としてデビュー〔同期にはダイタクヘリオスの主戦騎手だった岸滋彦元騎手や内田浩一元騎手らがいた。岸もデビューした年に36勝を挙げている。〕。3月5日の阪神競馬第2競走のダイタクゲニーで初騎乗(7着)。3月20日の阪神競馬第12競走のトーヨーシンゲキで初勝利(17戦目)。同年に44勝を挙げJRA賞最優秀新人賞を獲得した。 翌1989年も46勝を挙げるなど活躍。この年の6月18日の札幌競馬で5連続騎乗勝利を挙げた〔この時に母が単勝馬券を買い続けている。しかしながらこれは応援馬券であり、中には配当がかなりついたものもあったが、記念として保存したため換金されなかった。〕。これは2005年11月5日に横山典弘が6連続騎乗勝利を挙げるまでJRA記録として残っていた〔5連続騎乗勝利タイとしては武豊が2005年9月25日の阪神競馬で記録。〕。 1990年、ユートジョージに騎乗したNHK杯で初重賞制覇。また同年の宝塚記念ではオグリキャップに騎乗したが2着。翌1991年リンデンリリーでエリザベス女王杯を制し初めてのGIタイトルを獲得。しかしゴール入線後に馬が故障し、愛馬のいない中での表彰式となった。また、結果的にはこれが生涯唯一のGI勝利ともなってしまった。 1993年1月30日の京都競馬第7競走4歳新馬戦(芝2000m)でオギジーニアスに騎乗。4コーナーで同馬が左後脚に故障(予後不良診断で安楽死処分)を発生し、バランスを崩して馬が転倒するとともに岡が落馬した。その転落の際にヘルメットがずれ、ヘルメットのない頭部を後続のシリウスギンガの脚が直撃してしまった。救急搬送されたものの、外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、脳内出血により意識不明の重体に陥る。その後肺炎を併発して39度の高熱を発し、2月16日午後0時57分に逝去。24歳の若さであった。中央競馬におけるレース中の落馬による死亡事故は玉ノ井健志の1992年9月24日のものがあり、岡はそれに続く18人目の犠牲者となった〔その後2004年に竹本貴志が落馬事故で死亡し、現在の犠牲者数は19人に増えている。〕。なお死亡直後に告別式が行われたが、この告別式は競馬ファンにも開放され、多数の弔問者が訪れていた。 落馬事故の数日前に東海テレビで放送された『チャレンジ!名古屋競馬』という地方競馬の情報番組で名古屋競馬場に遠征するJRA騎手として受けたインタビューが生前最後の映像となった〔結局遠征は中止になった。〕。 わずか5年余りの騎手生活での通算勝利数が225勝(年平均約45勝)に上り、今日でも「武豊のライバルに成り得る騎手であった」と一部で評価されている。安藤厩舎に所属した川島信二は岡の死後、「彼のような騎手になれ」と安藤から岡の形見のムチを託され、岡のムチを使って初勝利し、現在はお守りとして所有している。 1994年4月25日、競馬学校同期生の菊沢隆徳が結婚式〔菊沢の夫人は横山賀一と横山典弘の妹である。〕を挙げた。その際、招かれた騎手達の席の中には、前年に亡くなった岡の席が設けられていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡潤一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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