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岩本 尭(いわもと たかし、1930年4月20日 - )は、和歌山県田辺市出身の元プロ野球選手(外野手、三塁手)・コーチ・監督。 == 来歴・人物 == 旧制田辺中学校を経て、早稲田大学に入学。後にヤクルト監督となる荒川博らが同期。安部球場で場外本塁打を打つなど長打力に優れ、監督の森茂雄からは「景浦二世」と呼ばれた〔『巨人軍の男たち』158頁〕。東京六大学リーグ通算77試合出場、279打数77安打、打率.276、1本塁打、38打点。 大学卒業に際して読売ジャイアンツと南海ホークスとの争奪戦となり、に巨人へ入団〔『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』301頁〕。巨人は限りで青田昇を放出していたことから、岩本は新人ながら与那嶺要・南村不可止とともに外野の一角を占め、七番を打って打率.254、7本塁打、46打点を記録する。からはクリーンナップに入って五番を打ち、打率.266、12本塁打、60打点を挙げる。に頭部への死球を受けてから、腰が逃げるバッティングとなって打率.199と不振に陥る〔。になると坂崎一彦に定位置を奪われるようになり、同年末に大洋ホエールズへトレードされた。 大洋では一番または二番を任され、から監督に就任した早稲田大学の先輩でもある三原脩の下、チーム初のリーグ優勝・日本一に貢献したが、翌に現役引退する。 引退後は大洋の一軍打撃コーチ( - )を務め、変化の激しいテニスボールを使用した打撃練習の方法を編み出して〔、捕手から一塁手に転向したばかりの松原誠をマンツーマンで指導して主力打者に育てた〔『巨人軍の男たち』159頁〕。また投手から左翼手に転向した江尻亮も松原に続く主力に成長した。には三原の招聘で、近鉄バファローズの一軍打撃コーチに就任。永淵洋三・伊勢孝夫・小川亨を育てた。 限りで三原が監督を辞任すると、近鉄球団は後任監督に鶴岡一人を招聘するも失敗し、岩本が監督に昇格した〔『近鉄バファローズ球団史1950-2004』41頁〕。当時のパ・リーグは阪急黄金時代で、その中で3位、2位につける。就任3年目のは前後期2シーズン制となりプレーオフ制度が導入され、投手力のある近鉄が短期決戦で有利あるとして優勝候補の筆頭にも挙げられる。しかし、投手陣の相次ぐ故障でチームは低迷し、8月下旬には島田光二が代理監督となり岩本は退任した〔『サヨナラ近鉄バファローズ』94頁〕。 近鉄監督退任後は、三原が代表取締役社長兼球団代表を務めていた日本ハムファイターズで一軍打撃コーチ()・二軍監督()を歴任。にはファームディレクターを務めた。からまでは古巣・巨人の二軍監督を務め、中畑清・篠塚和典を育てた。後に巨人のフロントに入り、まで在籍。その後はベースボール・マガジン社に勤務している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩本尭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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