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岩村城の戦い(いわむらじょうのたたかい)は、元亀3年(1572年)に行なわれた武田信玄軍と織田信長軍の岩村城をめぐる戦い。後に信玄没後の天正3年(1575年)にも武田勝頼軍と織田信長軍との間で行われている。 == 概要 == === 元亀3年(1572年)の戦い === 元亀3年(1572年)5月、岩村城主で「遠山七頭」として東美濃で勢威を振るった遠山景任が病死した。信長は軍勢とともに五男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子として送り込んだが、坊丸は3歳の幼児であったため、実際の城主は信長の叔母で景任正室のおつやの方が務めた。 元亀3年(1572年)10月3日、それまで諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝していた武田信玄が西上作戦を開始した。これに呼応したおつやの方は武田軍に寝返ってしまう。同年11月14日、岩村城は武田方になり、下条信氏が入城した。このおつやの方の行為に反発した他の東美濃土豪との間に起こった戦いが上村合戦と見られる。信玄は岩村に岐阜を牽制するよう命じており、信長は11月15日の書状で延友佐渡守に忠節を尽くしたことを賞し美濃国日吉郷・釜戸本郷を与えている。 また岩村城の近くには、遠山氏の菩提寺として臨済宗妙心寺派の大圓寺があり、住持の希菴玄密は、過去に甲斐の恵林寺の住持も務めたこともある武田信玄とは旧知の間柄の名僧で、信玄から恵林寺へ戻って欲しいという依頼が何度も来たが希菴はこれを断固拒否した。これを恨んだ信玄は大圓寺の焼き討ちと希菴の殺害を命じ元亀3年(1572年)岩村城開城から約2週間後の11月26日、大圓寺は武田軍の兵火により焼かれ、希菴は共の者と寺から逃亡した。これを知った武田軍は刺客3人を送った。彼らは希菴一行に追付き飯羽間川にかかる橋の上で全員を殺害した。ところが半月待たない内に三人は気が狂ったり、狂った馬から落ちて命を落とした。それに留まらずその5ヵ月後、信玄が死亡している。一説には信玄の重病を知った希菴の口封じが目的とも言われる。殺害された希菴らは村人達によって付近に葬られた。 元亀4年(1573年)3月6日、信玄は秋山虎繁に美濃出陣を命じ、岩村城に入城させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩村城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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