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岩田 久和(いわた ひさかず、1949年12月17日 - )は熊本県熊本市出身の日本の柔道家。階級は軽重量級(93kg級)及び95kg級。得意技は小内刈、背負投〔「新装版 柔道 体型別 技の大百科 第1巻」 ベースボールマガジン社、23頁-26頁 ISBN 978-4-583-10318-1〕。娘の岩田千絵は57kg級の強化指定選手として、2003年のチェコ国際では北朝鮮のケー・スンヒに一本勝ちするなど、国内外の大会で一定の活躍をしていた〔「柔道部員の高校生活」近代柔道 ベースボールマガジン社、2000年3月号、11頁〕。 == 経歴 == 鎮西高校3年の時にインターハイ団体戦で優勝を飾った〔。 明治大学に進むと、1968年と1971年の全日本学生柔道優勝大会ではチームの優勝に貢献した。 特に1971年の大会では、決勝の中央大学戦で主審の山本秀雄が「ハジメ」の声を掛けた際に、相手の土屋正がまだ横を向いていた中で颯爽と駆け寄り小外刈で一本勝ちを決めた。 結果的にこれが今大会において決勝点となったが、中央大学師範の山辺正路から、試合はお互いが正面を向き合った状態から始まるものであり、こんな形での決着はとんでもないことだとの抗議の声があがったものの、主審の山本に、敵が正面にいて「ハジメ」の声が掛かっていたにも関わらず、緩慢な動作で敵に背を向けていたのがそもそもの間違いだと窘められた〔「戦後大学柔道の軌跡 VOL.15」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年9月号 90頁-93頁〕。 その直後に開催された全警察・全実業・全学生対抗柔道試合では、全学生チームの一員として全警察チームの警視庁の前田行雄と対戦中に、前田が心筋梗塞で死亡して大会が急遽中止となるアクシデントに見舞われた〔〕。 全日本学生柔道選手権大会無差別では決勝で日本大学の遠藤純男に背負投で敗れた。 世界選手権では重量級に出場して、5回戦で西ドイツのクラウス・グラーンに判定負けするも、敗者復活戦を勝ち上がって準決勝でオランダのウィレム・ルスカと対戦するが、支釣込足の技ありで敗れて3位だった〔「激動の昭和スポーツ史⑯ 柔道」 ベースボールマガジン社、1989年発行 70頁-72頁〕。 1972年には新日鉄所属となると、全日本柔道選手権大会では準決勝で東海大学教員の佐藤宣践を破るものの、決勝では警視庁の関根忍に優勢負けして2位にとどまった〔。 1974年には選抜体重別軽重量級で優勝すると、アジア選手権軽重量級でも優勝を果たした。 1975年の選抜体重別では日本大学の石橋道紀に敗れて2位だった。 続く世界選手権では4回戦でイギリスのデビッド・スターブルックに判定で敗れてメダルを獲得できなかった〔。 1978年の講道館杯95kg級では優勝を飾った。 嘉納杯無差別では準決勝で東海大学の山下泰裕に横四方固で敗れるも3位となった。 1979年には新日鉄のプレイングマネージャーとなり、西日本実業柔道団体対抗大会決勝の旭化成戦では、大学の1年後輩となる上村春樹を代表戦で破った〔〕。 引退後は全日本実業柔道連盟の事務局長を経て、2001年には全柔連の事務局長となった。 さらに2010年にはアーバンセキュリティの柔道部顧問にも就任した〔〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩田久和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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