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﨑津集落(さきつしゅうらく)は熊本県天草市河浦町﨑津一帯の総称で、羊角湾に面した潜伏キリシタンの里として知られ、文化財保護法に基づき「天草市﨑津・今富の文化的景観」の名称で重要文化的景観として選定されている。2016年に世界遺産登録審査予定であった長崎の教会群とキリスト教関連遺産の構成資産でもあるが、世界遺産の推薦は一時取り下げられた。 ==歴史== 天草下島南部は室町時代より豪族の天草氏が領有し、1566年(永禄9年)に天草久種が南蛮貿易目的でルイス・デ・アルメイダに布教を許し、自身も洗礼を受けジョアンを名乗った。1569年(永禄12年)には教会堂も建てられた。﨑津は一般的ルートではないが遣唐使船が寄港するなど古くからの良港で、ルイス・フロイスの『日本史』には「Saxinoccu(サキノツ)」の記述があり、西洋にも知られていた。その後、キリシタン大名の小西行長が天草を含む肥後南部を支配することになり、豊臣秀吉のバテレン追放令後も宣教師を庇護した。 江戸時代になり1613年(慶長17年)の禁教令によりキリシタンは潜伏化し、1621年(元和7年)には〔本来は「兄弟愛」(友愛)を意味し、広義では信者の互助組織。日本では「信心会」「慈悲の組」「拝み講」などと訳され、集落単位の下部組織は(小組)という。フラタニティとソロリティも参照〕が組織された。1629年(寛永6年)には アントニオ・ジャノネ神父が﨑津で潜伏布教を行ったが、1637年(寛永14年)の島原・天草の乱によって天草は荒廃。だが、﨑津を含む下天草の人々は参戦しなかったことで、処罰されずに済んだ(﨑津は外界と隔絶していたため乱を知らなかった)。乱後に天草は天領となり、代官の鈴木重成が定浦制度を設け、次代の重辰が1659年(万治2年)に定浦を17ヶ所に増やした際に﨑津も指定されたことで漁業(キビナゴ漁)が盛んになるきっかけとなった〔江戸時代中期には天草を代表する七浦の一つにまで発展した〕〔﨑津同様に隠れキリシタンが多かった五島列島のキビナゴ漁法は﨑津から伝えられたとされる〕。定浦制度とは御用(幕府公用)船と荷子(水夫)を調達させる代わりに漁業権を与え、運上の安定を図るもの。 しかし、全国的に宗門改と寺請制度が始まり、1717年(享保2年)には鎖国による南蛮船の来航と密航・抜け荷を監視する長崎奉行管轄の遠見番所が置かれ地役人が常駐したこともあり(湾口の岬に置かれ今でも「番所の鼻」と呼ばれている)〔清・朝鮮・琉球の漂流船の保護も役目で、水夫の亡骸は﨑津集落対岸の向江地区にある程合墓地(唐人墓)に葬った〕、キリシタンは表向き仏教徒を装うようになった。現在では国道389号(﨑津バイパス)が集落を通過するが、かつては海路しか交通手段がなかったこともあり、隠れ住むのに適した地の利であった。﨑津でも長崎各地の潜伏キリシタン同様オラショを唱えるなどしたが、特徴的なのはロザリオやメダイとともにアワビやタイラギなどの貝殻を聖具としたことにある〔貝を神聖視したのは十二使徒聖ヤコブのホタテ貝伝説に由来するとの説もある〕。1651年(慶安4年)に建立された﨑津諏訪神社へ詣でる際には、「あんめんりうす(アーメン デウス)」と唱えていた。また、﨑津の潜伏キリシタンは踏み絵を拒絶せず、嫌疑を払拭した。実際には足の裏に紙を貼り直接聖像に触れないよう配慮したり、踏んだ足を洗いその水を飲むことで罪の許しを乞うゆるしの秘跡にしたという伝承もある。 1805年(文化2年)、﨑津・今富・大江・高浜の四郷10669人中5205人の潜伏キリシタンが摘発される「天草崩れ」が発生。しかし全員を処罰すると天領経営が成り立たなくなることから穏便に済ませたい江戸幕府の意向と、高浜の庄屋で高浜焼を興し『天草島鏡』を記した上田宜珍(源太夫・源作)の「心得違いをしていたが改心した」との取り成しで放免されたため多くは信仰を捨てなかった。これは前述の偽装棄教が功を奏したといえる。なお、天草崩れの取り調べの際、「悲しみ節(イエス・キリストが40日間荒野で断食したことに因む四旬節のこと)の時は多くが食を断つ」と証言しており、教会暦と教義の習慣が継承されていたことが窺える。 1873年(明治6年)に禁教令が解かれると、カトリックへの復帰が始まる。﨑津では1876年(明治9年)に多くが改宗し、1878年(明治11年)に熊本県知事の富岡敬明へ宗門人別改帳の転宗願いを届け出たが、1872年(明治5年)に戸籍法が制定され壬申戸籍が作られ宗旨の項目がなくなったことから受理されなかった。1880年(明治13年)に﨑津諏訪神社の隣に小さな小屋のような教会が建てられ、次いで1885年(明治18年)により大きな教会へ建て替えられた。明治中期には﨑津600戸のうち550戸がクリスチャンであったとされる。 明治後半から天草炭田の操業に伴い人や物資の往来が増え〔江戸時代後期には天草陶石の積み出し港としての役割もあった〕、﨑津は長崎航路が就航したことから船宿・料亭・映画館などができ、下天草随一の賑わいを見せた。さらに昭和40年代には漁法の近代化や漁船の大型化により、漁業(ちりめんじゃこ漁)の最盛期を迎えた。 1896年(明治26年)に﨑津村と今富村が合併して富津村となり、1954年(昭和29年)に富津村は町田村・新合村との合併で旧河浦町となった。2006年(平成18年)に現行の天草市となり、現在約350世帯が暮らしている。 2011年(平成23年)、﨑津地区が重要文化的景観に選定。翌年、文化庁文化審議会により﨑津集落が「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に追加された。 2014年(平成26年)には、バチカン市国・ユネスコ代表部大使の氏が﨑津を訪問して、﨑津教会のみならず﨑津諏訪神社にも参拝し、世界遺産登録を応援することを約束した。 2015年(平成27年)9月28日、ユネスコの委託を受けた国際記念物遺跡会議(ICOMOS)調査員(フィリピン人建築家ルネ・ルイス・S・マタ氏)による現地調査が行われた。 2016年(平成28年)2月9日、同年1月15日付で通知された「推薦内容を見直すべき」とのICOMOSから中間報告をうけ、﨑津集落を含む長崎の教会群とキリスト教関連遺産の推薦を取り下げることが閣議了解。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崎津集落」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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