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平季基(たいら の すえもと、生没年不詳)は、平安時代後期の地方官人。桓武平氏繁盛流大掾氏一門伊佐氏の庶家の鎮西平氏〔原口泉ほか『鹿児島県の歴史』(山川出版社)〕とも、坂東八平氏のうち、良文流の七世の孫〔石川雄治『日本書紀年代論』〕とも、平貞時(良持の子)を祖とする薩摩平氏の一族とも伝えられる。 ==生涯== 万寿年間(1024年~1028年)に大宰大監(位階は正六位下、地下人であるが、その中では相当に高位の身分)であった季基は、弟の良宗とともに未開の地であった日向国諸県郡島津院を中心として荘園を開墾し、これを関白の藤原頼通に寄進して、後に日本最大級の荘園となる島津荘を成立させた。 季基は島津荘寄進前から、私貿易を行い、唐物を道長に送っている。季基は平氏系図に名前はないが、高棟王の子孫である平季信と世代と年齢、名前から極めて近親者であると想像され、藤原氏と接近できたのは、宮歌人として知られる季信の娘出羽弁の仲介があったといわれている〔徳重浅吉『鎮西島津の庄』(大谷学報)〕。 万寿3年(1026年)に同地に移住し、荘官として島津荘の経営にあたった。その際、神託を受けて伊勢神宮を勧請し神柱大明神を造営(元は宮崎県都城市梅北町益貫黒尾神社の地にあったが、明治6年に現在地に遷座した)しその祠官を務めている。 長元2年(1029年)、大隅国庁および大隅国の住人藤原良孝の居宅を焼打ちにするが、季基は太宰大弐藤原惟憲に絹3000余り疋を贈る事によって、犯人として府解に記載されることを免れ、召喚されながらも処分は受けなかった。 後に家督を娘婿(又は子・兼輔の娘婿)である伴兼貞(肝付氏の祖)に譲り、自らは諸県郡南之郷箸野(橋野とも書く)御所に隠居し、同地に若一王子神社を造営し社司として生涯を終えた。 季基の墓所は鹿児島県曽於市末吉町南之郷字橋野にある(同市指定文化財)ほか、その霊は神柱宮の境内末社である基柱神社に祀られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平季基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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