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平岩氏(ひらいわし)は弓削氏を祖とする氏族の一つ。三河国額田郡坂崎郷(愛知県額田郡幸田町坂崎)に居住した。その家伝によれば同地にある平らな巨岩にちなんで名字としたと云う。この平岩氏から徳川氏譜代大名となった平岩親吉の系統が代表的であるが、同地域周辺では室町時代には既に多くの同族が分出しており、親吉の同族異流の平岩氏もその多くが松平氏・徳川氏の家臣となった。親吉以外では親吉に同じく徳川家康の家臣となった平岩元重やその子孫の系統が記録上に目立つ。三河の平岩氏の菩提寺は同国碧海郡桑子(岡崎市大和町沓市場)の妙源寺。平岩氏は弓に縁を持ち、家紋は弓削氏の頃は七曜、平岩改姓後は丸に並び弓。 == 平岩親吉の系統 == 初祖は平岩重益(五郎右衛門)。重益は三河国坂崎郷に住んだが、のち同国戸呂(土呂)郷に遷ったという。天文19年(1550年)卒。その子親重(新左衛門)の時、松平氏に属し、松平清康・広忠に歴仕したが、彼は京洛より岡崎城に滞在した食客の武士の無礼を憤り殺害したため、坂崎郷に戻り生涯幽居したという。親重の子、親吉(主計頭)は徳川家康の幼少の頃より近臣として仕え、家康の今川氏人質時代も近侍した。その功により、天正18年(1590年)の家康の関東入国後に上野国厩橋にて3万3千石で大名に列せられた。親吉はその後、甲斐国甲府藩主徳川義直(当時は五郎太と称す)の守役・陣代を勤め、義直を奉じて、尾張国清洲藩に移り尾張徳川家家老・犬山城主(城代)となったが、親吉の一族も親吉の一族衆として親吉に従った。親吉は嗣子がなく平岩本家は断絶したが、親吉の一族衆の平岩氏庶家は義直の直臣となり弓削衆と呼ばれた。江戸後期では姫路藩の家老職として存続し、現在でも兵庫県等でその系統は続いている。この系統の家紋は丸に右向きの並び弓。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平岩氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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