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平 重盛(たいら の しげもり)は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、正室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策を取ることができないまま、父に先立ち病没した。 六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。 == 生涯 == === 保元の乱、平治の乱 === 保延4年(1138年)、清盛の長男として誕生。母は右近将監・高階基章の娘。久安6年(1150年)12月、鳥羽法皇の蔵人に補される。翌年正月に従五位下になる。 保元元年(1156年)の保元の乱に父に従って参戦。『兵範記』には中務少輔・重盛の名が記されている。清盛の軍勢は源為朝との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところを見せた。保元の乱は清盛の属す天皇方の勝利に終わり、保元2年(1157年)正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。同年10月22日に大内裏が再建され、清盛は仁寿殿を造営した。父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。保元3年(1158年)年8月、清盛は知行国を安芸国から遠江国に移す。自らは大宰大弐であったため、重盛が代わりに遠江守となった。 平治の乱が勃発した平治元年(1159年)12月9日、清盛は熊野参詣のため紀伊国にいた。『平治物語』では重盛は動揺する父を励ましたとするが、『愚管抄』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛は同道していない。京都に戻った清盛は二条天皇を内裏から六波羅に脱出させ、藤原信頼・源義朝の追討宣旨を受ける。重盛は叔父・頼盛とともに出陣する。この戦いで重盛は「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作の可能性もある。 この合戦で藤原信頼に与していた藤原成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測される。乱の終結後に合戦の恩賞の除目があり、重盛は勲功賞として伊予守に任じられる。年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平重盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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