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平野 威馬雄(ひらの いまお、1900年(明治33年)5月5日 - 1986年(昭和61年)11月11日)は、横浜市出身の詩人・フランス文学者。同人誌「青宋」主宰。日本詩人クラブ創設会員。大杉栄との交流の縁から、平野の父とも個人的に交友関係のあったジャン・アンリ・ファーブル関係の著作の翻訳をいくつか手がけたことでも知られている。松戸 淳(まつど じゅん)という変名で好色文学の翻訳も手がけた。2度の結婚で9人の子を持つ〔Imao Hirano Semmel Family Forest〕。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === 東京市赤坂区青山北町(現在の東京都港区北青山)の柳原愛子邸に生まれ〔威馬雄の母は明治天皇に仕えていたが、28歳のとき暇が出て柳原邸に下り、行儀見習いをしていた。威馬雄の母は明治天皇に手をつけられそうになったため、そのことを知った愛子によって急遽宮中から自邸に引き取られ、そこでブイと結ばれたという言い伝えもある。その一方でブイと愛子は密通していたという説もあり、こうした経緯から威馬雄の実母を柳原愛子に擬する向きもある。毎日新聞記者の緒方昇(のち詩人となる)が満州で甘粕正彦に威馬雄の安否を気遣ったところ、甘粕は「ああ、あの人(威馬雄)のことなら心配はありません。警察も憲兵も、手をつけることができないのです」「平野という人の出生にからまる問題でしてね。このことは、事いやしくも皇室に関係があることなので、極秘なのです。恐らく当人もそのことを知っているかどうか……それも疑問ですが……」と発言したという。緒方は威馬雄に対して「しもじもの者には知り得べくもないのですが、戦争中、あなたが幾度もつかまりながら、危いところで無事に帰ってこられたり、あなたの知らぬ間に、あなたは守られていたということだけは確かなようです」とも語っており、それに対して三井良尚(やはり元毎日新聞記者で詩人)が「前に、日本放送にいた三ツ林滋だの、他の古手の記者が、内密裡に、その間のいきさつを調べているということだ」「古手の宮中記者の間では衆知の事らしい」と相槌を打っている。『アウトロウ半歴史』pp.340-350(話の特集、1978年)を参照。〕、横浜市西区老松町に育つ。父は弁護士事務所勤務から富豪の未亡人の3番目の夫となったことで財を成し、美術好きの日本通としてサンフランシスコ日米協会The Japan Society of San Francisco(The Japan Society of Northern Californiaの前身)の初代会長を務めたヘンリイ・パイク・ブイ(Henry Pike Bowie)で、その妻の死後1893年に来日し日米を行き来していた。威馬雄は「ブイはフランス系アメリカ人であったが、遡ればスコットランドの貴族の家系で、ナポレオンの最初の皇后ジョゼフィーヌの近い親族の子孫にも当たる」としているが、アメリカの資料では、18世紀にスコットランドからアメリカのメリーランドに移民したブイ一族の子孫である〔The Bowies and their kindred. A genealogical and biographical history Washington, Press of Cromwell Bros.1899, p156-〕。母の平野駒は夫同様カトリックを信仰する日本人で琴の教授だったが、近所ではラシャメンという蔑称で呼ばれ、差別に苦しんでいた。威馬雄は父から『家なき子』の登場人物に因み、レミと呼ばれて育つ。父親は日米を行き来していたが、威馬雄が7歳のときに来日して2年間ともに暮らし、再びアメリカに帰国〔『レミは生きている』平野威馬雄(東都書房、1959年・1967年/講談社〕。その間に弟・武雄が生まれる。 幼時より混血児として差別を受け、その憤りから日ノ出町通りの町道場「養義館」に通って柔道を習い、幼年組の一方の主将となる〔『レミは生きている』pp.45-48(講談社、1977年)〕。横浜市立老松小学校に通学していたが、ハーフとして肩身の狭い思いをせぬようにとの両親の配慮により、同じハーフが多く通学していたカトリック系ミッションスクールの暁星小学校に3年生から編入学、寄宿生となる〔『ALLAN No.6』、みのり書房、1984年4月、PP9-16。〕。ここでも学校のやり方に馴染めず、教師たちの陰険さや保護者の俗悪ぶりをのちに激しく批判している〔〔 『ふるさとがない』平野威馬雄 (講学館、1969年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「平野威馬雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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