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建部 武彦(たてべ たけひこ)は江戸時代後期の福岡藩士。武彦は別名であり、本名は自強(じきょう)。 福岡藩の尊皇攘夷派として幕長間の周旋活動に奔走した。 == 生涯 == 文政3年(1820年)、福岡藩士建部自福の嫡男として生まれる。 弘化2年(1845年)1月、家督を継ぎ知行高700石を与えられ、大組に加えられた。以降、使番・陸士頭・無足頭を務め、嘉永6年(1853年)に御用聞となり、安政4年(1857年)に役を辞すも文久3年(1863年)に再び御用聞に任じられた。 同年8月、八月十八日の政変により長州藩や三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追われると(七卿落ち)、公武周旋及び長州藩の宥免のために熊本藩・薩摩藩へ使者として派遣され、さらに世子の黒田長知に従って京都や長州藩へ赴き周旋活動を助けた。 元治元年(1864年)7月に起きた禁門の変後、第一次長州征討に際して福岡藩の尊皇攘夷派は、国内戦争を回避するため、長州藩に謝罪恭順と薩長和解を求める周旋活動を行った。武彦も征討軍の解兵のため、加藤司書や薩摩藩の西郷隆盛らとともに、長州藩と征討軍総督徳川慶勝の間を周旋した。 また、この年の7月以降、福岡藩の尊皇攘夷派は有事に備えるため、鞍手郡犬鳴谷村(現福岡県宮若市)に藩主の別邸である犬鳴御別館の建設を進めた。この地に知行地を有していた武彦は普請担当者としてその任にあたった。 慶応元年(1865年)4月、幕府が再度の長州征討を決めると周旋活動にあたった福岡藩の立場が危うくなり、5月以降、藩内の尊皇攘夷派に対する弾圧が始まった(乙丑の獄)。武彦は衣非茂記らと加藤司書らの救出を試みたが自らも自宅禁固となり、同年10月25日に安国寺(福岡市中央区)で切腹を命じられ、同寺に葬られた。享年46。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「建部武彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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