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徐 乾学(じょ・けんがく,1632年 - 1694年)は清朝初期の中国の学者、政治家。字は原一。号は健庵、健菴、玉峰先生。室名として傳是樓、碧山堂、冠山堂、頤保樓、願遂室、怡顏堂などがある。教習堂、憺園、碧山、遂園、東海とも称する。 == 生涯と業績 == 江蘇省昆山の出身。8歳から良く文を読み、縣學生・監生から1660年に挙人となり、1670年に進士となる。同時に内弘文院の編修に任命され、1682年に明史編纂総裁官、1685年に大清會典副總裁、1686年に大清一統志副總裁、そして内閣学士・經筵講官と礼部侍郎を兼任。康煕帝に近侍し著作に関する任務をほとんど任されるほどになった。学者としては胡渭・万斯同・閻若璩・黄儀・顧祖禹などと往来する。 1687年に都御史、1688年に會試正考官と刑部尚書となるなど毎年のように昇進していたが、この頃から諸臣・皇子らが党派をつくり争い合う風潮があり、徐乾学もまた客を好み党をかまえ、高奇士・王鴻緒などの姻戚・友人たちの首魁となり、弟である元文・秉義とともに昆山三徐とも称された。家人や問客のうちに奸利を働く者があり、御史の郭琇は「徐乾学は党を結び、巨額の賄賂を収めている」として弾劾し、副都御史の許三禮は「乾学律身不嚴」と上疏した。朋党同士の攻撃として、誇張されているとしても必ずしも虚言だけとも考えられない。 そのため、刑部尚書を辞して修書の総裁のみに就き、1689年に郷里にもどり著述に専念する。文章・学問に熟達していることを理由に、康煕帝がふたたび召したときにはすでに没していた。遺言として、編纂されていた『大清一統志』を上納し、死後ではあるがもとの官職に復された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐乾学」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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