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徐 華江(じょ かこう、1917年1月23日 - 2010年9月3日)は、中華民国の軍人、政治家。原名は吉驤。中央航校七期。最終階級は空軍少将。 == 生涯 == 合江省(現黒龍江省)富錦県にて生まれる。父親の徐鎮(字春菴)は清朝の官僚で、民国成立後は学者として活動していた。1933年、中央軍校第十一期生として入学。35年、中央航校に七期生として入学し、中国空軍の精鋭である第四大隊(志航大隊)の所属となった。 日中戦争勃発後、蘭州をはじめとする空中戦を経験。 1940年9月12日、重慶にて第23中隊第2分隊の2号機として(乗機はI-15、機体番号2310)出撃したが、既に敵の姿はなかった。その夜、成都の温江飛行場の周囲に飛行機を分散させるよう命じられ、成都へと単機で向かった。翌13日、遂寧に到着し、部隊と合流。着陸して燃料を注入した10時45分、急遽出撃命令を受けた。11時42分、重慶上空にて第十二航空隊所属の爆撃機および零戦13機(中隊長:進藤三郎大尉)を確認。だが遂寧に飛来した別の編隊を攻撃するよう命じられ、引き返そうとした所で零戦に追いつかれた。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に経験豊富だった中国軍は、すぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとするも、やがてスピード・火力共に優れた新鋭機の前に次々と撃墜されていった。 徐は最初の10分間で5、6回銃撃を受け、潤滑油タンクに穴を開けられた。この油で風防が汚れたため窓から顔を出し、飛行眼鏡を捨てて応戦したが、発射レバーの不調で思うように銃撃できなかった。徐は必死に逃げ回り戦線を離脱しようとしたが、空戦開始から30分後、1機の零戦(三上一禧二空曹)から銃撃を受けた。徐もすかさず三上機に対し両翼に2発撃ち込むも撃墜された。機体は田中に不時着し九死に一生を得た。 なお、この空戦は零戦の初陣であり、旧式の中国空軍は新鋭機の前に撃墜数13機、被弾損傷11機(うち10人戦死、負傷8人)という大敗北を喫した。 3日後、白市沢飛行場に戻った徐は黄山の空軍病院に移され、そこで初めて部隊の損害の状況を知った。 42年、第三大隊に移籍し、第七中隊中隊長に就任。44年まで英領インド(現パキスタン領)のカラチで組み立てられたP-66の回送を務めた。中美空軍混合団に加入し、1944年3月4日、海南島奇襲にB-25の援護として参加し、1機を撃墜。 P-40、P-51といった戦闘機を使用し前線を駆けた。終戦までの撃墜数は3.5機。 1947年、第4大隊大隊長に就任。国共内戦後は台湾に移り、空軍第4大隊大隊長、作戦計画室主任、情報処長、第4連隊参謀長、第4連隊長、作戦署副署長、司令部参謀長、国防部計画次長室助理次長等を歴任し〔空軍前飛虎隊員徐華江公祭 總統致祭追思 〕、1961年、少将に就任。73年退役し、以降は国民大会代表などを務めた。 なお、自身を撃墜させた三上とは1996年8月の特空会に招待された際、坂井三郎を通じて文通を行い、2年後の1998年8月15日、霞ヶ関ビル33階の一室にてようやく再会を果たした。再会に際し徐は「共維和平」と書いた一幅の書を贈っている。以降も、三上が訪台するなど互いに親交を深めた。 2010年、台北栄民総医院にて死去。享年93。 葬儀には馬英九総統をはじめ、国防部長二級上将、参謀総長海軍一級上将、空軍司令雷玉其上将ら軍の要人が参列した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「徐華江」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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