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折原 昌夫(おりはら まさお、1969年6月16日 - )は、群馬県邑楽郡出身、フリーランス(個人事務所「MOBIUS」)の男性プロレスラー。 == 来歴 == タイガーマスクに憧れ、関東学園大学附属高等学校でアマチュアレスリングに打ち込んだ後、1989年全日本プロレスに入門。入門後に天龍源一郎よりトンパチ〔「トンボにハチマキ」を語源とする相撲用語。トンボの頭は目ばかりだから、ハチマキをすると前が見えなくなることから転じて非常識、型破り、無鉄砲の意〕の異名を付けられる。 1990年2月22日、浜松市体育館における菊地毅戦でデビューするが、同年7月当時付き人をしていた天龍のSWS旗揚げに伴い、折原も移籍する。1992年に同様の理由でメキシコ遠征帰国後にWARへ。ウルティモ・ドラゴン、外道らを相手に玉砕ファイトと呼ばれる激しいスタイルで盛り上げ、新日本プロレスとの対抗戦では思い切りのいい空中殺法で評価を高めた。1993年には「トップ・オブ・ザ・スーパージュニア 」参戦。ダイナマイト・キッドをも思わせるファイトで一躍注目を浴びる。中でも大谷晋二郎との感情的な戦いは話題となった。しかしその後は精彩を欠き、1995年12月には武井社長より引退発表がなされWARを退団した。 1996年東京プロレスマットに「月光(Gekko=ヤモリ)」の名で覆面レスラーとして復帰。「月影」こと田村忍とともにヤングデストロイヤーズを結成。96年末にはFFF(旗揚げ前に解散)に移籍。1997年にMOBIUSを旗揚げし、トンパチマシンガンズ、ファーイーストコネクションの一員としてDDTプロレスリング、バトラーツ、みちのくプロレスを主戦場とした。1999年には再び新日本の「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」に参戦している。 みちのくプロレスのシリーズ参戦中の2004年7月に突如、耳鳴り・呼吸困難・全身硬直等の症状に襲われ、職場放棄同然で失踪した。後日、週刊誌にて精神科で「ドメスティック・バイオレンス症候群」と診断されたことを告白した。本当は格闘技が嫌いで、モルモットや小動物が好きな優しい性格なのに、求められていた悪役像を維持するために、全身にピアスの穴をあけ、全身に刺青をいれるなどの反動が出たという。その後、小学生相手にアマレスを教えるなどのリハビリを経て、2005年1月にインディー団体イーグルプロで復帰。現在は憧れの人物である、初代タイガーマスク・佐山聡の団体、リアルジャパンプロレスを主な戦場とし、同リングで鈴木みのるとのシングル、小野武志との「トンパチマシンガンズ」復活などを果たしている。2008年、数年ぶりにMOBIUS興行を復活。不祥事で活動自粛中だった金村キンタローを復帰させた。 2010年11月28日のDDT・後楽園ホール大会で首を負傷し「後縦靱帯骨化症」と診断された。折原本人は手術を希望したものの「手術に失敗すれば、プロレスラーどころか一般社会人として生活していくことも困難になる」として、一時は病院をたらい回しにされる事態となった。結局慶應義塾大学病院が手術に応じ、2011年3月に骨化部分の除去手術を受け、同年7月21日のリアルジャパン興行で復帰した〔東京スポーツ・2011年6月26日付 5面〕。その後天龍プロジェクトに所属し退団。現在はメビウスの復活を予定しており力道山三世力のトレーナーとしても活躍している。2014年3月16日メビウスが板橋グリーンホールで開催された。折原は現在メビウス開催のため千葉に働きに出ているという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「折原昌夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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