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押野後藤家(おしのごとうけ)は、加賀国(現在の石川県南部)の守護大名冨樫氏の後裔で、安土桃山時代から昭和期までを押野村(加賀国)に住んで十村役などを勤めた武門に始まる家系。 == 概要 == === 冨樫氏の滅亡 === 冨樫氏の実効的な加賀国統治は、守護冨樫政親が1488年(長享2年)、高尾城で加賀一向一揆に攻め滅ぼされて終った(長享の一揆)。 その後も冨樫氏は代々の守護職を擁立するが、一揆は衰えることなく勃発し、一揆討伐を掲げる織田信長と組んでも一揆勢力には抗えず、冨樫氏が再び加賀国を実効支配することは無かった。 元亀元年(1570年)5月、一揆に追われた冨樫氏最後の当主泰俊親子は野々市の守護館を脱出し〔三州志故墟考〕、冨樫氏の親戚で、朝倉氏家臣として越前国北方で加賀一向一揆防衛の配置に就いていた溝江景逸、溝江長逸の父子を頼り、溝江氏の館(金津城)に身を寄せた。 しかし、天正2年(1574年)2月19日、尾山御坊(後の金沢城)の杉浦壱岐率いる2万余の一揆勢に攻められ、溝江景逸は止む無く自ら館に火を放ち、妻や家臣、溝江氏菩提所梅昌山妙隆寺の弁栄坊を始めとする僧、泰俊(64)夫妻と長男稙春(27才)および次男天易侍者(25才)ら総勢三十余人が枕を並べ自害して果てた〔越前金津城主溝江家(全国溝江氏氏族会編)平成12年7月刊 pp.56-58〕 〔〕。 藤原利仁が延喜15年(915年)に鎮守府将軍になり、その次男藤原叙用が加賀の領主となった頃から数えて約700年、将軍の四世冨樫忠頼が加賀介となった延永元年(987年)から数えて約600年、七世孫冨樫家国が加賀国司に就いて野々市に館を築いた永延元年(1063年)〔野々市観光マップ 〕から数えて約500年、冨樫一族は遂に滅んだ。 だが、溝江長逸は長男の溝江長澄(24才)を単独で脱出させている。その後、長澄は織田信長や豊臣秀吉に仕えて秀吉馬廻衆として越前国内に1万石を与えられ、金津城を再興したが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため改易。その子長晴は彦根藩士として井伊家に仕えた。泰俊も最期に臨み、幼い三男家俊(9才)を腹心の家臣達に託して密かに館を脱出させることに成功した〔昔日北華録〕と伝承にある。 妙隆寺は、溝江氏一族と泰俊夫妻親子4人の霊を祀る菩提所であり、一揆犠牲者の経木や位牌とともに、供養の灯を絶やすことなく今に伝えている。 泰俊の法名は玄隆院殿巨川厳済大居士、同内儀の法名は慈現院殿玉珠清賢大姉。 泰俊の辞世の句が残っている〔溝江公・冨樫公一族等辞世之詩歌 梅昌山妙隆寺供養塔〕。 「先立ちぬくひの八千度悲しきは流るる水の廻り来ぬなり」冨樫の介泰俊 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「押野後藤家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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