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日拓ホームフライヤーズ : ミニ英和和英辞書
日拓ホームフライヤーズ[にったく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [にち, ひ]
  1. (n-adv,n-t) sun 2. sunshine 3. day 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

日拓ホームフライヤーズ ( リダイレクト:北海道日本ハムファイターズ ) : ウィキペディア日本語版
北海道日本ハムファイターズ[ほっかいどうにっぽんはむふぁいたーず]

北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ、)は、日本プロ野球球団。パシフィック・リーグに所属している。
北海道保護地域とし、札幌市豊平区にある札幌ドーム専用球場(本拠地)としている。2003年までの本拠地で東京都文京区にある東京ドームでも、準本拠地として年8試合程度を開催しており(後述)、北海道内の地方球場でも毎年主催公式戦を開催している(後述)。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。
== 球団の歴史 ==

=== セネタース - 日拓時代 ===
11月6日、戦時中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース( ''Senators'' 、企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘飯島滋弥白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族西園寺公一オーナーに付け、銀座キャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登スポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。
東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある〔これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった。〕。
9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。苅田久徳を可愛がっていた猿丸元(のち、東急球団代表)が五島慶太の子分で、猿丸が五島に球団経営を勧め、同年12月18日東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却した。セネタースと東急との仲介の労をとったのは小西得郎浅岡信夫黒川渉三である。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、''Tokyu Flyers'')」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスといくつかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、''Kyuei Flyers'' )」に改称した。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。
この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ( ''Kyuei Tic Flyers'' )」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス( ''Otsuka Athletics'' )のチックを絡ませた名称だった。
フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区後楽園球場とする(より、正式導入される)。
シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。パ・リーグ参戦初年度のシーズンは8球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。
、大下弘との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍〔。
9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。
1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社〔1985年2月、東映不動産株式会社に吸収され、東映興業不動産株式会社となる(東映興業不動産は、2006年11月に東映へ吸収され消滅)。〕に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、''Toei Flyers'' ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。
、後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。
12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。
、それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱したこともあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。
東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされる。この年の東映主催の日本シリーズのうち、第3・4戦は神宮、第5戦は学生野球と日程が重複したため、取決め上後楽園で開催した)。同年年頭、大川はワシントンハイツ多摩川園のいずれかへの新球場建設の将来構想を語った〔 東京スポーツ1962年1月4日、第1面に大川のインタビューが掲載されていた。〕が、結局は実現しなかった。水原監督の下で土橋正幸尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手 (MVP)土橋正幸種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。
国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男白仁天毒島章一大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。に水原は監督を解任された〔毎日新聞1967年11月26日13面「東映新監督に大下弘氏 水原解任"電撃的組閣"で幕」縮刷版p729〕
は、大下弘が監督就任したものの、シーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わる。、チームは4位に終わる。、「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し、4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打・最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。には、名物オーナーだった大川が急逝。岡田茂が社長に就任〔。岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く年間3億円の赤字が出ていて不採算だった球団を手放すこととなる〔(五島は野球が嫌いだった〔)。
1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝〔西村昭孝は、現在の日拓グループ社長である西村拓郎の父である。〕の経営する不動産会社日拓ホームへ球団を売却。売却額は3億円だった〔。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、''Nittaku Home Flyers'' )に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。なお、チームは前期5位・後期3位の総合5位に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。なお夕刊フジの報道によると、日拓を含む複数の若手起業家のグループが中心となって、フライヤーズの球団経営を1年ごとに代えていく方針があったとされる計画も模索されていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「北海道日本ハムファイターズ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hokkaido Nippon-Ham Fighters 」があります。




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