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日本庭園(にほんていえん、)は、19世紀以降日本国外にも数多く作られるようになった。日本国内で発展した伝統的な造園思想・造園技法に忠実なものだけでなく、異文化趣味(オリエンタリズム)として「日本」のイメージを投影したものもあり、様態は多様である。本記事では、それらすべてを含めた日本国外の日本庭園(にほんこくがいのにほんていえん)について扱う。 == 歴史 == === 欧米におけるジャポニズムと日本庭園 === 19世紀後半、ヨーロッパでは日本の浮世絵収集からジャポニスムが始まった。近代の国際関係に参入した日本は、国際博覧会への出品に際して、欧米人が抱く「日本」への憧憬を自己演出することで応えた。博覧会における日本のイメージ戦略は、欧米における日本ブームの大きな契機となった〔。日本庭園は、その重要な触媒のひとつであった。 1867年のパリ万国博覧会は、日本(江戸幕府・薩摩藩・佐賀藩)が初参加した万博であった。日本は清・シャムとともに3ヶ国でひとつの展示スペースを割り当てられた。江戸の商人清水卯三郎がパビリオンを茶屋に仕立て、柳橋の芸者に接待をさせて評判を集めた〔西川智之「」『言語文化論集』27巻2号。 ヨーロッパにおいて本格的な日本庭園が初めて造営されたのはウィーン万国博覧会(1873年)である〔。この万博は、明治政府がはじめて参加した万博であった。松尾伊兵衛や山添喜三郎らが日本から派遣されて日本庭園を造営し、白木の鳥居や神殿・神楽堂・太鼓橋などが建設され、池には錦鯉が放たれた。庭園の完成は万博会期の開始以後にずれ込んだが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリーザベトが来場して太鼓橋の渡り初めを行うなど注目を集め、会期後はイギリスの商社が庭園の建物をはじめ木や石をすべて買いあげた〔〔 - 国立国会図書館〕〔【コラム】ウィーン万博とジャポニスム - 博覧会―近代技術の展示場 - 国立国会図書館〕。 日本に憧憬を抱いていたクロード・モネは、ジヴェルニーの自宅の庭に池を造り(「睡蓮の庭」)、1895年には日本をイメージした太鼓橋(「日本の橋」Le Pont Japonais)を架けた。このように、欧米では邸宅の庭や公共公園の一角に日本風の庭園が造られるようになった。欧米人の日本庭園への関心に応えるため、ジョサイア・コンドルの“Landscape Gardening in Japan”(1893年)をはじめ、日本庭園に関する書籍も出版された。 福原成雄はタットン・パーク(1913年)について、書籍を通じて日本庭園に関する知識を得たイギリス人が自ら庭園を設計した事例であると考察している〔。ほかに、現地作庭家による作品にシェーンブルン宮殿日本庭園(1913年)などがある。こうした作品の中には、異文化趣味としての「日本」のイメージを反映したものも多く、鳥居の装飾的な使用や中国との混同など、日本文化に知識を持つものからは違和感をもって迎えられるものもある。 19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパで活動した日本人庭師には、パリ万国博覧会(1889年)に際してフランスに渡った畑和助らがいる。北米では、ブッチャートガーデンの造園に携わった岸田伊三郎らが活動した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日本国外の日本庭園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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