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明応の政変(めいおうのせいへん)は、室町時代の明応2年(1493年)に起こった足利将軍廃立事件である。なお、近年の日本史学界においては戦国時代の始期をこの事件に求める有力説がある。 == 経緯 == === 将軍位を巡る争い === 足利義材は、応仁の乱で西軍の盟主に擁立された義視の嫡子である。乱が西軍劣勢で収束すると、父と共に土岐成頼を頼って美濃へ逃れていた。義材の従兄の9代将軍義尚は守護大名や奉公衆を率い、六角高頼討伐(長享・延徳の乱)のため近江へ親征するが、果たせないまま長享3年(1489年)3月に近江で病死する。 義材は父と共に上洛して10代将軍に推挙されるが、伯父の前将軍足利義政や細川政元などは、堀越公方足利政知の子で天龍寺香厳院主となっていた義尚と義材の従兄清晃(足利義澄)を推す。しかし、日野富子が甥(妹の子)である義材を後援し、翌延徳2年(1490年)に義政が死去すると、義視の出家などを条件として義材の10代将軍就任が決定する。 この決定に反対した政元や伊勢貞宗らは義視父子と対立し、4月27日に貞宗は政所頭人を辞任した〔伊勢貞宗は前将軍足利義尚が幼少時から側近として仕えて養育に尽くし日野富子の信任が厚かった。また、その父・伊勢貞親は文正の政変の際に義尚のために義視暗殺を計画したことがあり、義材の将軍就任後に後難を恐れたためと言われている。これは、応仁の乱で義尚を支持した人々が共有する危機感であった。〕。ところが奇しくも同じ日に日野富子が将軍後継から外した清晃のために義尚の住んでいた小川殿を譲渡することを決めた。将軍の象徴である邸宅を清晃が継ぐことを知った義視は義材を軽視するものと激怒して、翌月には富子に無断で小川殿を破却した。富子はこれを義視の約束違反と反発して義材との距離を置くようになり、義視の病死後も関係は改善されなかった。 義材は前将軍義尚の政策を踏襲し、丹波、山城など、畿内における国一揆に対応するため、延徳3年(1491年)に政元の反対を押し切って近江国の六角高頼討伐を再開するなど軍事的強化を図った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「明応の政変」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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