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春日 虎綱 / 高坂 昌信(かすが とらつな / こうさか まさのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏家臣で譜代家老衆。幼名は春日源五郎(かすがげんごろう)。武田晴信 (信玄)・勝頼に仕え、武田四天王の一人として数えられる。 「高坂昌信」の名前で知られるが、確実な文書上からの実名は「春日虎綱」であることが指摘されている〔平山(2008)、p.313〕。「高坂」は信濃更級郡牧ノ島の香坂氏に由来し、虎綱が永禄年間に一時的に香坂氏の名蹟を継承していることに由来し、「昌信」に関しては出家名であるとされる。また、官途の弾正忠は通称としても用いられるので「高坂弾正」と記載する場合もある。 == 生涯 == === 出生から香坂氏継承 === 『甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。 はじめは使番として働き、天文21年(1552年)には100騎持を預る足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったという〔なおこの間の天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所所蔵文書)は虎綱を指すとされる「春日源助」宛で、晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている。晴信誓詞については鴨川(2004)〕。 武田氏による埴科郡の村上義清攻略が本格化した天文22年(1553年)には信濃佐久郡小諸城(長野県小諸市)の城代となる。なお、『高白斎記』によれば同年4月には信濃更級郡牧野島の国人・香坂氏が武田家に出仕している〔平山(1994・②)、p.52〕。香坂氏は武田領と反武田の北信濃国人・上杉謙信との境目に位置しつつ唯一武田側に属していた国人として知られ、虎綱が養子に入った背景にも香坂氏の川中島地域における政治・軍事的立場が考慮されたと考えられている〔平山(1994・②)、p.52〕。 虎綱が香坂氏に養子に入った時期は『甲陽軍鑑』によれば永禄4年に香坂氏が上杉謙信に内通し成敗された時点とし、別の部分では弘治2年(1556年)に小山田昌行(備中守)が水内郡海津城(長野市松代町)から雨飾城に番替えとなると後任として海津城代となり、この時点で「高坂」を称していたとしている〔平山(1994・②)、p.53〕。なお、海津城築城は『甲陽軍鑑』によれば永禄3年のこととしている〔平山(1994・②)、p.55〕。一方、高野山成慶院「武田家過去帳」では弘治4月時点で「香坂弾正」を称してることが確認される〔平山(1994・②)、p.53〕。こうして虎綱は香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津領の守将を任された。川中島衆となる北信の寺尾・屋代両氏の取次役を務めている〔平山(2008)、p.314〕。なお、虎綱は永禄2年まで「弾正左衛門尉」を称し、同年以降には「弾正忠」に改めている〔平山(1994・②)、p.53〕。 ただし、実際には「香坂」姓の名乗りが確認されるのは、永禄2年11月屋代政国宛判物における副状で、永禄6年6月まで「香坂」姓を称し、永禄9年9月までには復姓している。 海津城は武田氏と上杉氏の争いにおいて最前線に位置し、『軍鑑』に拠れば永禄4年(1561年)8月には上杉謙信が侵攻し、虎綱は海津城において籠城し、同年9月4日には川中島において第4次川中島の戦いが発生する〔平山(1994・②)、p.55〕。『甲陽軍鑑』によれば妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ、引き続き北信濃の治世にあたったという。永禄9年9月には春日姓に復姓する〔平山(2008)、p.314〕。 『軍鑑』に拠れば、その後も元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いなど、武田氏の主だった戦いに参戦したという 囲碁に関しては「信玄より高坂のほうが二子強かるべし」とする伝説があった〔http://www.excite.co.jp/News/lifestyle/20150720/NHKtextview_21077.html〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「春日虎綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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