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長崎 宏子(ながさき ひろこ、本名・春日 宏子。1968年7月27日 - )は、日本の元水泳選手。平泳ぎの選手として、主に1980年代に活躍した。現在はスポーツコンサルタントをしている。夫は春日良一〔2014/11/07(金)放送 TVでた蔵 TBS「爆報! THE フライデー」〕。 == 人物・経歴 == 秋田県秋田市出身。小学校から地元のスイミングスクールに通っていた。学年が進むにつれて“天才水泳少女”として注目され、秋田市立川尻小学校6年だった1980年に、すでに政治的問題から日本の不参加の決まっていたモスクワオリンピックの代表メンバーに選ばれる。出場していれば夏季五輪では日本人初の小学生五輪選手(冬季は1936年のガルミッシュパルテンキルヒェン大会に小学6年で出場した稲田悦子がいる)となっていた。同年から水泳日本選手権の200m平泳ぎで8連覇。100m平泳ぎでも翌年から7連覇を達成。 「水泳不毛の地」といわれた地域から日本のトップスイマーとなったが、それだけに様々な苦労もあった。普段指導しているコーチが、長崎以外には実績ある選手を持たないため、全日本チームには加われなかった〔阿部珠樹「『水の重さ』長崎宏子の透明な舞台」『Sports Graphic Number』No.296(1992年8月5日号)、文藝春秋、p70 - 75〕。 中学3年の1983年7月に翌年のロサンゼルスオリンピック本番と同じプールを使って行われたプレ・オリンピックの200m平泳ぎで、日本人で同種目初の2分30秒を破る2分29秒91の記録で優勝。この記録は世界歴代4位でその年の世界最高記録であり、翌年の本番でのメダル候補として注目を浴びる。 1984年、一般入試で秋田県立秋田北高等学校に進学。この進学について、中学3年生の時に雑誌に公表した手紙で「水泳を中心に考えてもいいという高校には行きたくないし、東京の高校も嫌です」と記していた〔「<往復書簡>前畑秀子/長崎宏子」『Sports Graphic Number』No.95(1984年3月20日号)、p34 - 36。この手紙は、タイトルにあるようにベルリンオリンピック女子200m平泳ぎ金メダリストの前畑秀子に宛てた形で書かれたものである。長崎は1983年に初めて前畑と出会ってから親交を持ち、手紙には苦しくなると前畑の著書『前畑ガンバレ』を読み直すと記していた。〕。 ロサンゼルスオリンピックに際しては、彼女のベストを上回る記録を持っていた東欧の選手が軒並み政治的問題で不参加となり、一躍水泳では唯一と言ってよい金メダル候補となる。しかし海外の高地練習で泳ぎの生命線というべき膝を故障。その状態でオリンピック本番を迎え、結果は200m平泳ぎ4位、100m平泳ぎ6位と入賞するものの、期待されたメダルには手が届かなかった。 1985年に秋田北高校を中退してアメリカへ留学する。世間からは「水泳留学」といわれたが、長崎は小学6年で初めて海外遠征に行った際に一緒になったアメリカ育ちの選手に憧れ、それ以来アメリカに留学して英語を勉強する希望を持っていたと雑誌の取材で述べている〔。留学当初は水泳から離れる気持ちが強かったがトレーニングだけは続けていた。そのプールで出会ったアメリカ人たちからロス五輪について「オリンピックに出たことをなぜ誇りに思わないのか」「世界で4番目とは凄いことだ」と評価され、それまで後ろ向きに捉えていた水泳への見方が変わった〔。これがきっかけとなって、カリフォルニア大学バークレー校に進学後、本格的なトレーニングを再開した〔。ここで、スポーツビジネスを専攻。 1988年に帰国してソウルオリンピックの日本代表選考会(日本選手権)に出場するが、当時14歳で中学生の西岡由恵に敗れる。従来の実績を買われて代表メンバーに選ばれるものの、100m平泳ぎ・200m平泳ぎともに予選落ちと結果は振るわなかった。 ソウルオリンピック後、学業に専念するためいったん水泳から身を引く。その後、ブリガムヤング大学から「泳いでくれれば奨学金を出す」という話があり、もっと勉強したい気持ちがあったためこれを受諾する〔。2ヶ月のトレーニングののち、全米学生選手権に出場して2位となった。1991年6月の日本選手権で100m・200m平泳ぎでそれぞれ2位に入ったのを最後に競技の第一線を退く。続けていれば、翌年のバルセロナオリンピックで夏季大会では日本女子初の4大会連続代表も不可能ではなかったが、オリンピックを目指す気持ちはすでになかったという。 そのバルセロナオリンピックでは、岩崎恭子が自らの記録を9年ぶりに破り、さらに金メダル獲得を果たす場面を、テレビのゲストコメンテーターとして目撃した。なお、1984年に樹立した100m平泳ぎの日本記録は1995年に田中雅美が更新するまで11年間破られなかった。 その後、JOC職員となるも、組織のあり方と自分の理想の違いから1994年6月に退職。この間、IOCの選手委員も務めている。1995年、職場結婚。 JOC退職後に個人事務所「ゲンキなアトリエ」を設立。JOC勤務時に当時妻子あった男性との交際が問題となったが、関係者間で理解が得られたこともあり、この男性と結婚。3人の娘をもうけたことをきっかけに、現在はマタニティースイミング・ベビースイミングなどの水泳指導者として活躍しているほか、ベビースイミングの普及に向けた活動も行っている。2001年に故郷・秋田市にオープンした秋田県立総合プールの名誉館長に選ばれた。 実姉は元プロ野球選手の荻原満の妻(「月刊ジャイアンツ」1992年5月号別冊付録セリーグ選手名鑑より)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長崎宏子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hiroko Nagasaki 」があります。 スポンサード リンク
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