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昭儀(しょうぎ)は、前漢以降の後宮における皇帝の側室の称号。 『漢書』外戚伝下によれば、昭儀とは「その儀を明らかにし、尊重していること」であるという。 漢が成立した当初は、皇帝の嫡妻は皇后と呼ばれ、それ以外の妾はみな夫人と称し、そのほかに後宮には美人、良人、八子、七子、長使、少使の号があった。武帝の時に倢伃などの号が制定された。昭儀は元帝の時代、元帝が子を産んだ傅倢伃、馮倢伃を後宮で特別な地位に就けようと考案された称号である。 昭儀は皇后に次ぐ地位であり、官位としては丞相、爵位としては諸侯王に相当する。 後漢において後宮の号は改められ、皇后、貴人、美人、宮人、采女だけになり、昭儀の号は廃止された。しかし曹操が魏公に封じられた際、魏国の後宮の号に昭儀も採用され、魏が禅譲を受けて以降も後宮の称号として存続したが、県侯に相当するものとされており、地位は前漢よりも下がっている。 晋においては武帝の父 · 司馬昭の名を避諱されて、昭儀の号は採用されなかったが、十六国においては採用された。南北朝において、昭儀は皇后に次ぐ地位であった。 唐において、皇后、三夫人に次ぐ九嬪の一つとなっていた。宋において、昭儀は十八嬪の一つとなっていて、正二品に相当する。 清代に廃止されている。 == 参考文献 == *『漢書』巻97外戚伝 *『後漢書』本紀10上皇后紀上 *『三国志』巻5后妃伝 *『宋書』巻41后妃伝 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「昭儀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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