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昭和天皇独白録 : ミニ英和和英辞書
昭和天皇独白録[しょうわてんのうどくはくろく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

昭和 : [しょうわ]
 【名詞】 1. Japanese emperor (1926-1989) 
: [わ]
 【名詞】 1. (1) sum 2. (2) harmony 3. peace 
: [てん]
 【名詞】 1. heaven 2. sky 
天皇 : [てんのう]
 【名詞】 1. Emperor of Japan 
: [どいつ]
 (n) Germany
独白 : [どくはく]
  1. (n,vs) monologue 2. talking to oneself 3. soliloquy
: [しろ]
 【名詞】 1. white 

昭和天皇独白録 ( リダイレクト:昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。1990年に『文藝春秋』において公表された。==作成・発見の経緯==『独白録』は、外務省出身で当時宮内庁御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。寺崎によるしめくくりには、この記録の作成経緯について次のように記されている。木下道雄の『側近日誌』によると、1945年12月4日に梨本宮守正王が戦犯容疑で逮捕されたのをきっかけとして、昭和天皇との相談の上「御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可」として松平康昌と共に木下が作成することになった。作業は一旦中止されたが、翌年2月25日になり戦犯裁判との関連で手記を用意する必要がないかとの天皇の下問があり調査が再開された。稲田周一の手になる正文があったとみられるがこれは発見されていない。『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。寺崎は病のため48年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカに戻った。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管した。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。1990年12月号の『文藝春秋』に全文が掲載されると大反響をよび発行部数は100万部を超えた。寺崎の日記を付した単行本が『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』として1991年3月に刊行された。1995年に寺崎日記を除いて『昭和天皇独白録』として文庫化された。 ) : ウィキペディア日本語版
昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。1990年に『文藝春秋』において公表された。==作成・発見の経緯==『独白録』は、外務省出身で当時宮内庁御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。寺崎によるしめくくりには、この記録の作成経緯について次のように記されている。木下道雄の『側近日誌』によると、1945年12月4日に梨本宮守正王が戦犯容疑で逮捕されたのをきっかけとして、昭和天皇との相談の上「御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可」として松平康昌と共に木下が作成することになった。作業は一旦中止されたが、翌年2月25日になり戦犯裁判との関連で手記を用意する必要がないかとの天皇の下問があり調査が再開された。稲田周一の手になる正文があったとみられるがこれは発見されていない。『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。寺崎は病のため48年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカに戻った。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管した。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。1990年12月号の『文藝春秋』に全文が掲載されると大反響をよび発行部数は100万部を超えた。寺崎の日記を付した単行本が『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』として1991年3月に刊行された。1995年に寺崎日記を除いて『昭和天皇独白録』として文庫化された。[しろ]
昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。1990年に『文藝春秋』において公表された。
==作成・発見の経緯==
『独白録』は、外務省出身で当時宮内庁御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。寺崎によるしめくくりには、この記録の作成経緯について次のように記されている。

木下道雄の『側近日誌』によると、1945年12月4日に梨本宮守正王戦犯容疑で逮捕されたのをきっかけとして、昭和天皇との相談の上「御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可」として松平康昌と共に木下が作成することになった。作業は一旦中止されたが、翌年2月25日になり戦犯裁判との関連で手記を用意する必要がないかとの天皇の下問があり調査が再開された。

稲田周一の手になる正文があったとみられるがこれは発見されていない。
『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。
寺崎は病のため48年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカに戻った。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管した。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学ゴードン・バーガー教授に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした〔。
『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。1990年12月号の『文藝春秋』に全文が掲載されると大反響をよび発行部数は100万部を超えた。寺崎の日記を付した単行本が『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』として1991年3月に刊行された。1995年に寺崎日記を除いて『昭和天皇独白録』として文庫化された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「昭和天皇独白録(しょうわてんのうどくはくろく)は、昭和天皇が戦前、戦中の出来事に関して1946年(昭和21年)に側近に対して語った談話をまとめた記録。1990年に『文藝春秋』において公表された。==作成・発見の経緯==『独白録』は、外務省出身で当時宮内庁御用掛として昭和天皇の通訳を務めていた寺崎英成により作成された。寺崎によるしめくくりには、この記録の作成経緯について次のように記されている。木下道雄の『側近日誌』によると、1945年12月4日に梨本宮守正王が戦犯容疑で逮捕されたのをきっかけとして、昭和天皇との相談の上「御記憶に加えて内大臣日記、侍従職記録を参考として一つの記録を作り置くを可」として松平康昌と共に木下が作成することになった。作業は一旦中止されたが、翌年2月25日になり戦犯裁判との関連で手記を用意する必要がないかとの天皇の下問があり調査が再開された。稲田周一の手になる正文があったとみられるがこれは発見されていない。『独白録』の一部は、木下の『側近日誌』に関係文書として収録されている。この「木下メモ」は菊花紋章がついた罫紙の用箋に書かれており、独白録の冒頭「大東亜戦争の遠因」に対応しているが、独白録よりも詳細である。寺崎版では「木下メモ」の文章が口語に変換され省略されている。寺崎は病のため48年から実務を離れ、翌年にグエン夫人と娘のマリコは、マリコの教育のためアメリカに戻った。寺崎は2年後に死去した。寺崎の遺品に含まれていた独白録は弟の寺崎平が保管した。グエンが執筆した『太陽にかける橋』が日米でベストセラーとなり出版社の招待で1958年に来日した夫人に平から遺品が手渡された。グエンとマリコは日本語が読めなかったため記録類はしまい込まれた。30年後にマリコの息子コールが記録を整理する過程で文書の鑑定を南カリフォルニア大学のゴードン・バーガー教授に依頼し、教授はさらにこれを東京大学教授の伊藤隆に転送した。「歴史的資料として稀有なもの」との評価を受け取った寺崎家では重要性を鑑みて公表することにした。『独白録』の存在は1990年11月7日の新聞各紙で初めて報道された。1990年12月号の『文藝春秋』に全文が掲載されると大反響をよび発行部数は100万部を超えた。寺崎の日記を付した単行本が『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』として1991年3月に刊行された。1995年に寺崎日記を除いて『昭和天皇独白録』として文庫化された。」の詳細全文を読む




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