|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 普 : [ふ] 【名詞】 1. widely 2. generally ・ 恩 : [おん] 【名詞】 1. favour 2. favor 3. obligation 4. debt of gratitude ・ 寺 : [てら] 【名詞】 1. temple ・ 仲 : [なか] 【名詞】 1. relation 2. relationship ・ 時 : [とき] 1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment
北条 仲時(ほうじょう なかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏一門。鎌倉幕府最後の六波羅探題北方である。普恩寺流で第13代執権である北条基時の子。普恩寺 仲時(ふおんじ なかとき)とも呼ばれる。 == 生涯 == 元徳2年(1330年)11月(7月21日)、鎌倉を発って上洛する〔 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』新人物往来社、1990年、p.551〕。12月27日、六波羅探題北方となる〔。 元弘元年(1331年)の元弘の乱で、挙兵して笠置山(京都府相楽郡笠置町)に篭城した後醍醐天皇を攻め、天皇を隠岐島に配流する〔。さらに護良親王や楠木正成らの追討・鎮圧を担当する〔。 元弘3年/正慶2年(1333年)5月、後醍醐の綸旨を受けて挙兵に応じた足利尊氏(高氏)や赤松則村らに六波羅を攻められて落とされると、5月7日に六波羅探題南方の北条時益とともに、光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って東国へ落ち延びようとしたが、道中の近江国(滋賀県)で野伏に襲われて時益は討死し、仲時は同国番場峠(滋賀県米原市)で再び野伏に襲われ、さらには佐々木道誉の軍勢に行く手を阻まれ、やむなく番場の蓮華寺に至り天皇と上皇の玉輦を移した後に、本堂前で一族432人と共に自刃した〔。享年28。この史実は、『増鏡』、『梅松論』、『太平記』に詳しく記載されている。天皇と上皇は道誉に保護されて京都へ戻された。蓮華寺には自刃した432人の五輪塔群がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条仲時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|