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景文王(けいぶんおう、845年? – 875年)は新羅の第48代の王(在位 : 861年 - 875年)であり、姓は金、諱は膺廉〔『三国史記』新羅本紀・景文王紀の分注には疑廉ともいう。また、新羅本紀・真聖女王即位紀には、崔致遠の『文集』第二巻「謝追贈表」を引用して、景文王の諱を凝(ぎょう)と記している。〕(ようれん)。父は第43代僖康王の子の啓明阿飡(6等官)〔『三国遺事』王暦では父を啓明角干(1等官)とする。また、『三国史記』新羅本紀では景文王の6年(866年)に、亡父啓明を追封して懿恭大王とした。『三国遺事』王暦では義恭大王(或いは、懿恭大王)とする。〕、母は光和夫人〔『三国史記』新羅本紀の分注では光義夫人とも記す。また、866年に王母「朴氏」を光懿王太后に追封したとする。『三国遺事』王暦では、第45代神武王の娘の光和夫人としている。王母の姓が朴氏と記されることについては、唐に対して同姓不婚を憚ったものである。哀荘王の脚注も参照。〕、王妃は先代の憲安王の娘の寧花夫人〔『三国史記』新羅本紀では、866年に文懿王妃とされたとする。『三国遺事』王暦では文資■后と記される。〕。861年1月に憲安王が死去し、王子がいなかったために婿の膺廉を王位に就けよとする遺詔に拠って王位に就いた。 == 治世 == 唐に対しては、862年7月に使者を派遣して土産物を貢納し、865年4月には懿宗から<開府儀同三司・検校太尉・侍節大都督・雞林州諸軍事・上柱国・新羅王>に冊封された。また、このときには王だけでなく王妃・王太子・大宰相・小宰相へも下賜品があった。869年7月には王子の金胤らを唐に派遣し、馬二匹・砂金百両・銀二百両ほか、様々の進奉を行なった。このときには李同らの学生を金胤に随わせており、唐で学業を修めさせるとともに書物を購入するための費用として銀三百両を李同らに下賜している。翌870年2月には沙飡(8等官)の金因を唐に宿衛させた。874年には僖宗からの宣諭使を受けており、唐との交流は往時の盛んさを回復した。この間、864年4月に日本からも国使を迎えたことが記されている〔日本側の史書には対応する記事はない。→井上訳注1980 p.385 注13〕。 867年5月には王都金城(慶尚北道慶州市)で疫病が流行り、同年8月には洪水が起こった。地方各地でも穀物が実らず、王は各地へ安撫の使者を派遣して慰問に努めた。870年には王都が地震・洪水に見舞われ、その冬には再び疫病が流行ることとなった。873年にも飢餓と疫病が起こり、王は民に穀物を与えて救済したが、政情は安定しなかった。疫病などの厄災と呼応するでもなく王都での貴族層の反乱が相次いだのは、その現われと見える。 866年10月には伊飡(2等官)の允興がその弟の叔興・季興とともに反逆を謀った。事前に発覚して允興らは岱山郡(慶尚北道星州郡)に逃走したが、捕縛されて斬刑に処され、一族が誅滅された。また、868年1月には伊飡の金鋭・金鉉らが反乱を起こして誅殺され。さらに874年5月にも伊飡の近宗が反乱を起こして宮中まで至り、王は近衛兵を派遣して撃破し、逃れた近宗一味を捕らえて車裂きの刑にした。反乱者を捕らえきれない程に統制力の低下していた文聖王の頃から比べると、少しは統制力は回復していたとみられる。 在位15年目の875年7月8日に死去し、景文王と諡された。埋葬地については記されず、王陵比定も不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「景文王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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