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有明 五郎(ありあけ ごろう、1912年9月1日 - 1959年7月20日)は、東京府東京市(現在の東京都新宿区)出身で錦嶌部屋所属の戦前に活躍した元大相撲力士。本名は、金子 元五郎(かねこ もとごろう)。身長171cm、体重111kg。得意手は左四つ、寄り。最高位は東前頭11枚目(1944年5月場所)。有明吾郎とは別人物。 == 来歴 == 1929年5月場所、錦島部屋から初土俵を踏む。最初の四股名は錦谷であった。四つに組むと力を出す相撲であったが、体も硬く勝ち身が遅く、あまり稽古熱心な方ではなかった。新十両は1936年1月場所、しかしその後も幕下と十両の間を往復し、新入幕は1941年1月場所、入門から12年も経過していた。幕内でもすぐには勝てず、大負けして十両に陥落。 1943年5月場所に再入幕を果たし、このとき有明と改名した。幕内でもなかなか勝てず、十両に落ちるほどではなかったものの、とうとう幕内在位中の勝ち越しもなく、1945年6月場所には十両に陥落、そこでも負け越しを続け、1945年11月場所限りで現役を引退した。結局、再入幕の1943年5月場所から、引退まで6場所連続の負け越しであった。一方、西前頭15枚目で迎えた1944年1月場所を7勝8敗と負け越しながら、翌5月場所では自己最高位の東前頭11枚目に番付を上げている。これは当時東西制をしいていたことの恩恵といわれている。 引退後は、現役時代から二枚鑑札で襲名していた年寄式秀となり、一時期(1951年 - 1954年)は部屋も興したがすぐに閉鎖、錦島部屋付の年寄として過ごした。色黒で、「エチオピア」というあだ名があったという。なお、34代木村庄之助は、彼の養子である。 余談であるが、伊勢ノ海部屋の序二段玉木良が、2012年7月場所より『有明吾郎』に改名した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「有明五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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