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服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。通称は半蔵(はんぞう)で、服部半蔵の名でよく知られている。 松平氏(徳川氏)の譜代家臣で徳川十六神将、鬼半蔵の異名を取る。実戦では、伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮していた。 == 生涯 == 天文11年(1542年)、服部保長の四男として三河国伊賀(現愛知県岡崎市伊賀町)に生まれた〔「第35回 忍者の階級の巻 」 歴史人〕。 保長は伊賀国の土豪で、北部を領する千賀地氏の一門の長であった。当時の伊賀には服部氏族の「千賀地」「百地」「藤林」の三家があったが、狭い土地において生活が逼迫したため、保長は旧姓の服部に復して上洛。室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える事となる。ちょうどその時、松平清康が三河国を平定し将軍に謁見するべく上洛した折り、保長と面会して大いに気に入り、その縁で松平氏に仕えることになったという。 伊賀国予野の千賀地氏を正成の一族とするのは誤りで、阿拝郡荒木の服部半三正種の子とするのが正しいとする説がある(『今治拾遺』『服部速水正宣家譜』)。また千賀地氏城の伝承においては、上記とは逆に将軍に仕えていた服部保長が伊賀に戻り、千賀地氏を名乗ったとされ、その子である服部正成と徳川家康の接点が無い。 正成は父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕えて遠江国掛川城攻略、姉川の戦い、三方ヶ原の戦いなどで戦功を重ねた。 『寛政重修諸家譜』によると、弘治3年(1557年)、16歳のときに、三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立てたという。この際、家康から持槍を拝領したという。〔これが正成の初陣とされるが、当時、家康は今川義元の人質として駿河国にいた。さらに城主である鵜殿長持は、この頃、今川方に属していたため、それを考えれば正成が家康の命で宇土城を攻めるはずはないため、史実としては疑わしい。しかし、今治藩家老の服部正弘が編纂した『今治拾遺』のなかの『服部速水正宣家譜』に年号や年齢についての記述はないが、正成が三河宇土城を夜襲し、その武功を立て家康から紋付・杯・槍を褒美として贈られたと記述があるため、宇土城で戦功を挙げたのは事実と見てよい。 参考文献:小学館週刊『新設戦乱の日本史 第16号 伊賀忍者影の戦い』〕。 元亀6年(1572年)、三方ヶ原の戦いでは徳川軍は大敗したが、正成は武功を立てたため、家康から褒美として槍を贈られ、伊賀衆150人を預けられる。 天正7年(1579年)に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき検使につかわされ介錯を命ぜられたが「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることが出来ず、家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したという。この時の様子は 大久保彦左衛門の『三河物語』にも描写されている(→下記外部リンク)。もっとも信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説もある。また近年では信康の切腹について、信長が信康を恐れて切腹させたという説や、家康と信康の対立が原因という説も出されている。 天正10年(1582年)6月、信長の招きで家康が少数の供のみを連れて上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、このとき堺に滞在していた家康が甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に抜ける神君伊賀越えに際し先祖の出自が伊賀である正成は商人・茶屋四郎次郎清延とともに伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し彼らに警護させて一行を安全に通行させ伊勢から船で三河の岡崎まで護衛しており彼らは後に伊賀同心、甲賀同心として徳川幕府に仕えている。 同年には本能寺の変により甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生するが、同年8月に正成は家康に従い甲斐へ出陣する〔平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(学研パブリッシング、2011年)、pp.240 - 245〕。家康は甲斐国において、現在の北杜市域を中心に布陣した相模国の北条氏直に対して甲府盆地の各地の城砦に布陣し、正成は伊賀衆を率いて甲府市上曽根町の勝山城や甲府市右左口町の右左口砦・金刀比羅山砦に配置され、甲斐・駿河を結ぶ中道往還を監視した〔平山優『天正壬午の乱 本能寺の変と東国戦国史』(学研パブリッシング、2011年)、pp.240 - 245〕。 小牧・長久手の戦いでは伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退している(成島の『改正三河後風土記』)。 天正18年(1590年)の小田原征伐で家康に従軍した。その功により遠江に8000石を知行した。家康の関東入国後、与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石を領した。自身は武将であったが、父親が伊賀出身であった縁から徳川家に召し抱えられた伊賀忍者を統率する立場になったという。 慶長元年11月4日(1596年12月23日)に没し、江戸麹町清水谷の西念寺(東京都新宿区)に葬られた。西念寺は、正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した浄土宗寺院・安養院の後身である。 伊賀同心支配の役は嫡男の正就が継いだ。半蔵門は、半蔵の屋敷が門前にあったことから名づけられたという〔正成が徳川家康の危難を救った「伊賀越え」を采配した功績を称え、半蔵門と名付けられたとする説もある。〕。半蔵門から始まる甲州街道は甲府へと続いており、服部家の家臣の屋敷は甲州街道沿いにある。江戸時代の甲府藩は親藩や譜代が治めており、享保3年(1718年)に柳沢吉里が大和郡山に国替えになってからは天領となって甲府城代が置かれた。甲州街道は江戸城に直結する唯一の街道で、将軍家に非常事態が起こった場合には江戸を脱出するための要路になっていたといわれる。服部家の改易後は伊賀組は江戸城内(大奥、中奥、表等)を警護し、甲賀組は江戸城外の門を警護していたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「服部正成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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