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本島 等(もとしま ひとし、1922年(大正11年)2月20日 - 2014年(平成26年)10月31日)は、日本の政治家。1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)の4期にわたり、長崎県長崎市長を務めた。 == 略歴 == 長崎県南松浦郡北魚目村(現在の新上五島町津和崎郷)に生まれる。隠れキリシタンの末裔であるためカトリック教徒であり、母が未婚ということもあって、戦時中はスパイ疑惑を掛けられた。旧制高校在学中の21歳の時に徴兵され、見習士官として新兵に大砲の撃ち方を教えていた。終戦時は、所属していた西部軍管区教育隊・砲兵生徒隊の疎開先である熊本市郊外の山奥にいた。戦後、京都大学工学部に入学。在学中は京都カトリック学生連盟の委員長を務めたこともあった。27歳で卒業。 その後、教員生活を経て、長崎県議会議員を5期20年務め、長崎市長となった。その間、自由民主党長崎県連合会幹事長などを務めた。 昭和天皇が重病で余命が長くないと知らされ、国中に自粛ムードが漂っていた1988年(昭和63年)12月7日、市長3期目の在任中だった本島は、市議会で共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し、海外の記事や自分の従軍経験から考えて「戦後43年経って、あの戦争が何であったかという反省は十分にできたと思います…私が実際に軍隊生活を行い、軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」と答弁。同日の記者会見でも「天皇が重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば沖縄戦も広島・長崎の原爆投下も無かったのは歴史の記述から見ても明らかです」と重ねて発言した。その直後に、自民党県連などが発言撤回を要求したが、本島は自分の良心を裏切ることはできないとして、これを拒否した。これに対し自民党県連は県連顧問から解任し、多数の右派系人物、組織が市長を非難した。また、多数の街宣右翼が長崎市に押しかけ、80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」を叫んだ。 元々は「天皇にも戦争責任はあると思う。しかし、日本人の大多数と連合国軍の意志によって責任を免れ、新しい憲法の象徴になった。私どももそれに従わなければならないと解釈している。」という趣旨の発言であったが、マスコミ各社は「天皇の戦争責任はあると思う」と言う部分だけを強調する形で報道した〔ニュースは語る 戦後五〇年 - 長崎新聞社〕。 1990年(平成2年)1月18日、警備費用がかかりすぎるとの自民党市議の批判を受けて警察が警備を緩和したときに、右翼団体『正気塾』の田尻和美が本島を背後から銃撃した〔田尻は2000年(平成12年)に刑期満了で出所し、同右翼団体の創始者と養子縁組・改姓して幹部となっている(若島和美も参照)。〕が、奇跡的に命を取り留めた(長崎市長銃撃事件も参照)。その後、本島は瀕死の重体であったが「犯人を赦す」と述べている。 1991年(平成3年)の選挙では共産党は公認候補を出さず、実質的に本島を支持し、そのほかの左派勢力の協力も得て4選したが、1995年(平成7年)の選挙では多選批判などを受け、自民党の推薦を受けた伊藤一長に敗れ、政界から引退した。2007年(平成19年)に伊藤が銃撃によって死亡した際には「2代にわたり市長が銃撃されるのは異常」とコメント(毎日新聞)した。 2002年(平成14年)、第1回韓日平和交流功績賞(韓国の被爆者団体と長崎県被爆2世教職員の会が設けた賞)、並びに、ドイツの功労勲章一等功労十字章が贈られた。 2002年(平成14年)以降、左翼過激派との接近が顕著になり、中核派の機関紙『週刊三里塚』巻頭の「闘いの言葉」を執筆している。 2014年(平成26年)10月31日、肺炎のため死去。92歳没〔訃報:本島等さん92歳=元長崎市長 毎日新聞2014年10月31日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本島等」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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