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杉崎里子 : ミニ英和和英辞書
杉崎里子[すぎさき さとこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

杉崎里子 : ウィキペディア日本語版
杉崎里子[すぎさき さとこ]

杉崎 里子(すぎさき さとこ、1942年12月24日 - 1997年7月20日)は将棋女流棋士(女流棋士番号は7)・女流四段、観戦記者、将棋講座講師。「和洋裁の店サトコ」を経営するとともに「杉崎里子和洋裁教室」を運営。「和洋裁教室」は、亡くなるまで続けた。大分県北海部郡佐賀関町(後に大分市の一部)出身。
==人物==
1933年(昭和8年)12月24日、大分県北海部郡佐賀関町に生まれる。父は杉崎喜蔵、母は正子。生家は、300年続いた老舗の呉服屋「平野屋」であるが、里子が生まれた時期から昭和30年にかけては、「平野屋」が扱っていた高級呉服は時代にそぐわなくなっていた上に、同業者の負債の肩代わりをしなければならなくなる事態も起き、里子の生家は倒産を余儀なくされた。多感な娘時代に、実家の没落を体験したわけだが、前向きで明るい性格は生涯変わることがなかった。
棋士として著名になってから料亭などに招かれる機会も増えた後、「たまたま行った料亭で、『見慣れた皿がある』と思って、底を見てみると、『平野屋』と銘が入っている。『うちの皿だったのに』と思うと、悔しくてならなかった。そういうことがあって、『万が一、生活に余裕ができても、家具や食器には、絶対にお金をかけまい』と決めたの」という話などに、「生家の没落」の影響が少しばかりうかがえる。

岩田学園の高等部を卒業。娘時代のエピソードとしては、「ミス・コンテスト」に出場し、佐賀関町の大会では優勝したが、長兄の杉崎直彦に「ミス・コンテストは、女性差別につながるから、県大会には絶対に出ないでくれ」と求められ、「町一番の美女」に甘んじたことなどがあげられる。長兄直彦の友人だった男性と結婚するが、一人娘を産んだ後、里子は体調を崩し、療養生活をおくることになった。それがきっかけとなり、婚家に娘をおいたまま離縁に追い込まれることになる。

いくつかの職を経た後、「得意な裁縫を仕事にしたい」と思い別府女子短期大学(後に別府溝部学園短期大学に改称)の被服科に入学。働きながら学業を続け、卒業にこぎつける。短大に通っていた時期、教育実習に行くために使っていたバス停のすぐそばに「将棋クラブ」があったのが「和洋裁」と「将棋」を生活の両輪にすえた「その後の人生」の始まりとなった。
里子にとって将棋は、幼い頃、生家で父や兄達や弟と一緒に親しんだ「遊び」だった。小学校に上がった後、母の正子から「男に交じって、将棋をさすのは、やめなさい」と、駒を捨てられた。それ以降は和歌をこよなく愛し、多芸多才でもあった母の希望通り「娘らしく」茶道・華道・琴・お謡いなどの御稽古事に熱中する生活をおくったが、短大通学中に「将棋クラブ」を偶然見つけ、久々やってみると里子が一番強かった。
三ヶ尻武五段に弟子入りし、被服科の授業と将棋双方に情熱を傾ける生活が始まった。
短大部を出た後研究科を修了し、母校に「助手」として勤務する。「教師」になったのだから「将棋は控えよう」と決意するが、1970年(昭和45年)退職して、「和洋裁の店サトコ」を大分市に開店した後、再び「将棋」の魅力にのめりこむ。

1972年、1973年(昭和47年、48年)と2年連続して「全国女流アマ」準名人となる。1975年(昭和50年)にプロ一級となり、大分県で初の女流プロ棋士となった。短大で助手を務めていた1969年(昭和44年)からは、地元の「大分合同新聞」の将棋欄観戦記者としての活動も始める。将棋は「攻め」が特徴で、おもに居飛車をさし「相手に攻められても、守らず、攻める」棋風だったそうだが、「観戦記」の方は、一人一人の長所を必ず見つけ出して対局を論じる「あたたかさ」が特徴だった。「観戦記者」の仕事は、亡くなるまで続けられた。
「大分合同豆棋士将棋大会」や「大分合同県下職域対抗大会」を提案するなど、大分県におけるアマチュア将棋の裾野を広げる役割も果たした。特に、子供が将棋大会に安心して参加できるよう、大会会場を「禁煙」にするなど、細部にまで心遣いをいきわたらせた運営が印象的だったという。
 和洋裁教室でも多くの弟子を育てたが、将棋教室でも多くの弟子を育て上げた。長兄杉崎直彦が、大分県の軟式庭球界で名プレイヤーとして評価された以上に名コーチとして評価されたと同じく、里子も「後進の育成」面で非常に高く評価されていた。
里子自身は、将棋人として成し遂げた一番困難な仕事は大分県将棋連合会理事長として、1991年(平成3年)に大分県で初めて開催された将棋の最高位を決める「第四期竜王戦」第三局の裏方を務めたことだと考えていたようだ。「日本一」を決める大会の対局が大分市で一般の人にも観戦してもらえると決まったが、必ずしも出足はよくなかった。ところが大会当日は、予想以上の人が会場に押し寄せる結果となり感慨無量だったらしい。
将棋人としての数々の功績により、1996年(平成8年)11月棋界功労賞を受賞。また、1997年(平成9年)3月には大分合同新聞社賞を受賞するが、同年7月20日午後7時半頃、大分市で開かれた「第五十一期大分合同アマ将棋名人戦」の後、飲食店で関係者と打ち上げをやっていた最中に、突然具合が悪くなって座敷に横になった。病院に運ばれるが、8時半過ぎ病院にて死亡が確認された。誤嚥性肺炎による窒息死だった。享年54。

死去の直前には、別府に新しく建てられることになっていた「高層マンション」の「高層階」を購入する決断をし、その件を友人に報告する際「私は、空を買うことに決めたのよ」と、話し始めたこともあるらしく、「死の気配など、全く感じられなかった」という。杉崎里子を知る多くの人にとって「受け入れがたい突然の死」だった。
ただ、住んでいた大分市内のマンションでは、「杉崎さんは、亡くなる前は、一人で歩いている時は、がっくり肩を落として、寂しそうにしてらっしゃることも多かったんですよ」という目撃談が語られてもいた。自分の未来への確たる展望もあり、はた目には元気そうに見えても、その身体の深部の疲労や心までは人には分からないということかもしれない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「杉崎里子」の詳細全文を読む




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