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杉浦 俊香(すぎうら しゅんこう、1844年6月22日(天保15年5月7日) - 1931年(昭和6年)6月8日)は、静岡県安倍郡静岡東草深町(現在の静岡県静岡市葵区)出身、戦前の日本の美術家、日本画家、哲学者。壮年期は日光及び高野山に籠り技を研磨し、支那に遊び台湾に渡り技を磨いた。60歳にして摂津国剣尾山(けんぴさん、現在の大阪府豊能郡能勢町)の人跡絶し山頂に籠居し3年間の修養を積み〔『無名画家俊香・佛国学士会員となる』東京朝日新聞、1913年(大正2年)11月25日、朝刊5頁掲載。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕、独自の日本画を創出し雅号を俊香と称す。生涯を通じての作品は一般の画家に較べ遥かに少なく、溌墨画及び雪影は独自の画風である。近代日本画壇はもとより、前後五回、欧米に渡り日本画の紹介行脚を行い海外にも日本画を紹介した。1913年(大正2年)、仏蘭西政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章、外国人に贈られる最高章を授章、同時にルーヴル美術館より遺作《遠浦帰帆》の展示を約束された。 == 生涯 == *1844年(天保15年)6月22日 - 駿河国府中の徳川家臣・今井家の第十六代今井半右衛門松宇〔松村圭三著『大森山 長源院誌 資料集』北堀昌雄、61頁、1996年(平成8年)8月。〕の三男・今井高融として生まれる。 *1850年(嘉永3年) - 幕臣の家に生れ、5歳の頃、筆と紙を与えれば泣き止む変わりものだった。6歳の時、父の書斎に入って遊んでいた、また悪戯かと覗くと筆を取って絵を描いていた。出来上がって見れば運筆雄渾大人の舌を巻かした。 *1857年(安政4年) - 14歳の頃、時の画学者の隠士怡顔斎(松岡恕庵)から運筆の奥義を授かったのが画の道に入る始まりだった。松岡恕庵から当代の工作に学ぶことなかれ、古人の意を師とせよと戒められた〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、8頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1859年(安政6年) - 15歳の時、天台の仙僧幽深に就いて、専ら道学佛書を修め、仏学の深源と修練の正途とを伝えられ、後事を託された〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、9頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1874年(明治7年) - 諸制度改革の潮流は宗教にまで及ぼし神佛界の前途頗る怪しくなったので、俊香は宗教原則論を唱え出し各宗管長の総代となって、時の大教院に建白を差出し運動家として現れたが、その素論は行われない事から又も読書の人となって明窓浄几に古人を友とした。 *1892年(明治25年) - 清国視察に向かい、その描いた絵画は清国識者の認める所となり、当時、清国には既に斯かる本義を具する画を創作する人失われたりと云うに聴いた〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、11頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1898年(明治31年) - 日本美術院の創立に際し、岡倉天心、橋本雅邦等と意見を異にし、独自の道を進み真の日本画の真髄を世界に紹介すべく、たびたび諸外国を歴訪した。 *1902年(明治35年) *5月15日 - 『精神有無論』を発刊。中江兆民が生前遺著にして出版界を驚倒した『一年有半』に次ぐ『続一年有半』を評して、あわせて『一年有半と蓄式の唯物論』『無神無霊魂説の是非如何』『宇宙大観』等、中江兆民の著に関して出した数著の所説を論破したるもの当来は知らず今は『一年有半』に関したる著書の段として見るべき書なり〔『精神有無論(杉浦俊香著)』読売新聞、1902年(明治35年)5月25日、朝刊1頁掲載。2013年(平成25年)9月5日閲覧。〕。 *6月12日 - 静岡県静岡市東草深町三丁目、戸主杉浦清養父分家し、東京市神田区三崎町三丁目に住居を移す。同年6月12日、東京市日本橋区北新堀町、滑川光亨次女よ祢と結婚する。同年10月20日長女いつ誕生する。 *1903年(明治36年) - 大阪府での第五回内国勧業博覧会に《二十四孝》二点を出展(杉浦高融)した〔『第五回内国勧業博覧会美術出品目録』出版者、第五回内国勧業博覧会事務局、1903年(明治36年)3月。[]〕。 *1904年(明治37年) - 長岡護美、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、男爵細川潤次郎、子爵福岡孝弟、高橋新吉、男爵辻新次、男爵加藤弘之等から美術学校の講師に推薦される〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、11頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1905年(明治38年)11月15日 - 二女須美誕生する。 *1906年(明治39年) *12月4日 - 凱旋記念五二共進会美術部第一回監査会に於いて、橋本雅邦、川端玉章等の老大家と共に優待室に《緑陰静修》《湖畔晩帰》の二大作を陳列され、特選の上審査員に推薦された。凱旋記念五二共進会総裁正二位勲一等伯爵松方正義より深謝状を授かる。俊香は未だかって作画を展覧会に出したことは無く、世間に名前さえ知られていなかった。仏教、仙術を始め一切の東洋古学に精通し、画法に熟達せるも深く自ら韜晦(とうかい)して世と隔てていた。偶然の機会より長岡護美、男爵細川潤次郎、男爵九鬼隆一、加藤弘之博士等の知る所となり、凱旋記念五二共進会の熱心な勧誘に応じ数点を同会に出品した。其の画法は極めて精確にしてあたかも相阿弥、雪村、若しくは光信の風ありと云う〔「隠れたる大家(杉浦俊香翁)」東京朝日新聞、1906年(明治39年)9月17日、朝刊4頁掲載。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕。 *1907年(明治40年) *1月6日 - 長男晋誕生する。 *春 - 京都美術展覧会の審査委員を務める。 *山水画三点を栗野慎一郎大使に委託し仏蘭西巴里の中央サロンに出品、展示を許可された。同会への東洋画の出品許可は初めてだった〔「杉浦画伯の名誉」東京朝日新聞、1907年(明治40年)6月26日、朝刊3頁掲載。2013年9月3日閲覧。〕〔「杉浦俊香翁の栄誉」佛国巴里中央サロン出品《雨将降》杉浦俊香翁画。時事新報、1907年(明治40年)6月26日、東京朝刊6頁掲載。2014年(平成26年)4月25日閲覧。〕〔「杉浦俊香翁」読売新聞、1907年(明治40年)6月26日、東京朝刊3頁掲載。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕。 *1908年(明治41年)〜1909年(明治42年) - 本邦絵画沿革を十四点に抄写して携帯し作品を携え、アメリカ合衆国・ワシントンD.C.、フランスに渡り、日本画の紹介に努めた。フランスにおいてはフランスの画家、日佛協会、美術館長、博物館長等の展覧に供した仏蘭西政府からオフィシエ・ド・アカデミーを贈与された。ルーブル美術館東洋部長カストン・ミジョンは「吾人が氏を俟つに森厳崇高なる尊敬を以ってすることは、吾人の眼光に映ずる氏は、己に薄明に蔽はれたる崇高なる文明の、固く幻宴に封寒されたる別世界の最後の代表者である。」と評された。ルーヴル美術館に作品の展示を約束された〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、11頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1910年(明治43年) *3月22日 - 二男かく誕生する。 *不臥断食の修業 - 摂州の倹尾山頂の人跡の絶えた所に庵を造って立て篭もった。この法の幽玄なる所を味わえば、古人の佛画の運筆は如何になり居るかも知りたくなり高野山の宝蔵から曼荼羅を借り受けて、彼是3ヶ年と云うものは不臥不眠の修業を積み山を下り又もや塵の世に踏み出した〔「隠れたる絵の大家、道学、兵学、歴史、佛書を兼ねた学者、絵の天才は三度時人を驚かし、最後に欧洲美術界を感嘆せしむ」東京朝日新聞、1910年(明治43年)2月13日、朝刊。2014年(平成26年)10月29日閲覧。〕。 *1913年(大正2年) *10月22日 - 賞勲局総裁従二位勲三等伯爵正親町実正より大日本帝國外國記章佩用免許證(第3494号)を受ける。10月30日の官報にてフランス共和政府よりオフィシエ・ド・アカデミー勲章(現芸術文化勲章)を贈られ、佩用を允可された事を発表した〔「無名画家俊香翁・佛国学士会員となる」東京朝日新聞、1913年(大正2年)11月25日、朝刊5頁掲載。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕。 *12月4日 - フランスからオフィシエ・ド・アカデミーを贈られた祝賀会に兼ねて画品鑑賞会が発起人今泉雄作、前田健次郎、廬野楠山、古筆了信等に依って催された。賛助員には、公爵蜂須賀茂韶、男爵細川潤次郎、子爵金子堅太郎、男爵加藤弘之、子爵高島鞆之助、男爵九鬼隆一、松室致、子爵青木周蔵、子爵清浦奎吾、伯爵土方久元の人々に招待状が送られた〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、25頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1915年(大正4年)6月2日~5日 - 銀座美術館にて絵画復興参照作品展覧会を開く〔「絵画復興会」読売新聞、1915年(大正4年)6月4日、朝刊6頁掲載。2013年(平成25年)9月5日閲覧。〕。 *1916年(大正5年) *10月21日~23日 - 華族会館にて催主・伯爵柳沢保恵による杉浦俊香翁作品観覧会を開く。 *11月20日 - 『絵画と国家の盛衰[http://www.geocities.jp/norilive/indexSyunko04.html]』を発刊する。絵画と国家の盛衰には、松方海東、土方泰山、細川十洲の題字があり、絵画源流参照として二十一葉の写真が載せてある〔杉浦俊香著『絵画と国家の盛衰』東京朝日新聞、1916年(大正5年)12月21日、朝刊6頁掲載。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕。 *1919年(大正8年) *時の有識者、伊東巳代治、石川成秀、犬養毅、早川千吉郎、花井卓蔵、細川潤次郎、徳富猪一郎、床次竹二郎、大木遠吉、金子堅太郎、高橋是清、高木兼寛、棚橋一郎、九鬼隆一、柳田國男、柳沢保恵、松室致、益田孝、福原鐐二郎、藤澤南岳、古賀廉造、佐分利一嗣、清浦奎吾、島田三郎、柴田家門、平山成信、鈴木宗言らにより正画復興会が起こされた。これは、杉浦俊香を支援し、日本美術思想の復興を図り、正画の藍奥を明らかにしようとするものであった。 *欧米を作品を携えて巡遊し展覧する。 *1920年(大正9年) *5月15・16日 - 丸の内生命保険協会にて第一回個人展覧会を催す〔「俊香翁の個人展」読売新聞、1920年(大正9年)10月23日、朝刊6頁掲載。2013年(平成25年)9月5日閲覧。〕。 *10月23・24日 - 丸の内生命保険協会にて展覧会を開く〔「杉浦俊香氏展覧会」東京朝日新聞、1920年(大正9年)10月20日、朝刊7頁掲載。2014年(平成26年)9月5日閲覧。〕。 *1921年(大正10年)1月~1922年(大正11年) - 作品を携えアメリカよりスイス・チューリッヒ、ドイツ・ドレスデン、イギリス・ロンドン、フランス・パリを歴遊し東洋絵画の古精神を鼓吹した。アメリカに於いて二十世紀倶楽部やボストン倶楽部で会員に展覧した。スター新聞の美術欄は「秀でた日本美術家杉浦俊香氏の古典派の様式に依って描いた日本画の著しい蒐集が国民美術陳列館の監督の下に、国民博物館に於いて展覧されている。蒐集は掛物、懸額等40点である。此れ等は東洋美術の最も善い伝統と一致し、支那及び日本の巨匠の作品と比較すべきものである」〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、16~17頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1922年(大正11年) *10月26日 - 『画界の維新』を発刊する〔『画界の維新』東京朝日新聞、1922年(大正11年)10月28日、夕刊1頁掲載。2013年(平成25年)9月5日閲覧。〕。 *エコール・ド・パリが杉浦俊香の日本画を評論、「此の度、アカデミー諸氏と共に日本画家杉浦俊香翁の作品を一見するに至りて、その趣きの近来の日本画に於いて未だ観取せざる点を発見したり。翁の作品の特徴は画題の選択高尚至純にして気品を具へ細より密に入り眞に逼りて精神躍如たり、之れ翁が徒らに彩筆の画家にあらずして眞に美術の眞締を解するの士と謂うべし。翁は当年80歳の高齢者にして日本人に見る稀れなる巨大なる体駆を有し身心共に益々強健なり、今日迄欧洲を巡遊する2回更に一両年後に渡航するとのことなれば吾等は翁の健康を祈り其の来遊を待つのである。」 *1923年(大正12年) *2月26日 - 内務大臣官舎に於いて、美術問題に就き杉浦俊香の美術問題に就いての講話が開かれた。後援したのは法律或いは教育の方面に特別の造詣と経験を有する、枢密院副議長男爵平沼騏一郎と貴族院議員嘉納治五郎だった〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、30~31頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *5月 - 男爵平沼騏一郎、嘉納治五郎、鵜沢総明等により、神田錦町三丁目の学士会館において杉浦俊香の講演会が行われた。 *1924年(大正13年)6月下旬 - 上海に渡航した。7月1日に芸術学校長、中華美術学校長等に会見し東洋絵画の問題に就いて談話を交換した。美術学校には日本語の話せる者が居て好都合であったとのことである。校長は俊香の意見に同意した。俊香はそれから7月18日の廬山の仏教大会に行き絵画幾点かを携帯して展覧に供した。日本仏教会の代表者水野梅暁にも会見することが出来、水野の勧告もあって絵画を持って廬山に行くことができた〔鵜沢総明著『随想録』大東文化協会、28頁、1936年(昭和11年)4月5日。〕。 *1925年(大正14年)3月30日 - 住まいを東京市神田区三崎町三丁目より東京市麻布区広尾町に移す。 *1926年(大正15年) *1月 - 大東文化協会の有志が来遊中のドイツ・シュトゥットガルト博物館長フイツシエルを小石川の偕楽園に招いて一夕の美術談を交換した。参加者は井上哲次郎を始めとして木下成太郎、大村西崖、辜鴻銘、北昤吉、原田尾山等であった。俊香は館長の参考のために画三四点を携えて参会した。 *5月31日~11月30日 - アメリカ独立150年記念フィラデルフィア万国博覧会に出展、絵画部門でゴールドメダルを授与された。 *1927年(昭和2年) *2月2日~6日 - 東京、三越呉服店に於いて「杉浦俊香氏新作絵画展覧会」を開催。 *5月20日~22日 - 東京丸之内、日本工業倶楽部に於いて「杉浦俊香翁東西洋に微証せし作画被目録」を開催。 *1928年(昭和3年)11月10日 - 昭和天皇即位に当たり、水墨山水《晴雪浩観》、金碧山水《夏渓静修》の二幅を献上、宮内大臣一木喜徳郎より嘉納状を受ける。 *1931年(昭和6年)6月8日 - 肺炎のため東京市麻布区広尾町の自宅で死去。86歳没。フランス・ルーヴル美術館へ約束の一幅を送る〔「杉浦俊香画伯・外国に知られた日本画家」東京朝日新聞、朝刊7頁掲載、1931年(昭和6年)6月9日。2013年(平成25年)9月3日閲覧。〕。 *墓所は東京都港区南青山の東京都青山霊園にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉浦俊香」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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