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杉 常道(すぎ つねみち)は、江戸時代後期から末期(幕末)の長州藩士。通称は百合之助。号は恬斎。字は伯兪。子に杉民治、吉田松陰、楫取美和子など、弟に吉田大助、玉木文之進がいる。 == 生涯 == 無給通組士の杉常徳(七兵衛)の子として生まれる。文政7年(1824年)に家督を相続し、翌年に児玉太兵衛の養女を娶る。 家格は無給通組(下級武士上等)、石高26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立て、7人の子供を育てていた。おまけに三男は発声が不自由であった。天保3年(1830年)に記録御次番役となり、翌年に呉服方になる。天保6年(1835年)、弟吉田大助が死去したため、吉田家(家禄57石)の家督を次男の寅之助(松陰)に相続させた。 安政元年(1855年)、密航を企てた松陰が生家預かりとなり、常道宅に蟄居することとなる。その時松陰は父や近親者に『孟子』や『武教全書』を講じる。安政2年(1856年)、松陰の処分が解け、松下村塾の主宰者となると、長男修道(梅太郎)と共に最初の生徒となる。安政6年(1859年)5月に松陰が江戸護送となると、藩職を罷免され万延元年(1860年)に家督を修道に譲るが、文久3年(1863年)に当職(国相府)内用方になり、盗賊改方を兼務する。慶応元年(1865年)3月に辞職しほどなくして死去した。 墓は山口県萩市の椿東椎原にある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杉常道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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