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李佐(り さ、431年 - 501年)は、北魏の官僚・軍人。字は季翼。本貫は隴西郡狄道県。 == 経歴 == 李宝の子として生まれた。孝文帝の初年、散騎常侍を兼ね、高句麗に対する使者として立った。帰国すると、常山郡太守に任じられ、真定子の爵位を受けた。冠軍将軍・懐州刺史に転じ、山陽侯の爵位を受けた。まもなく安南将軍の号を加えられ、河内公に封じられた。安東将軍・相州刺史に転じた。 孝文帝が南征の軍を起こすと、李佐は安南将軍の号を受け、咸陽王元禧の大司馬の任を補佐し、殿中将軍の号を受けた。495年(太和19年)、城陽王元鸞や安南将軍の盧淵らとともに斉の赭陽を攻撃したが、諸軍の連係が取れず、斉の垣歴生が来援すると敗北した。敗戦の罪により瀛州に流されて民とされた。498年(太和22年)、孝文帝が宛鄧に南征すると、李佐は再び起用されて、仮の平遠将軍として軍を率い、斉の新野郡太守の劉忌の守る新野城を攻略した。功績により涇陽県開国子に封じられた。沔北が平定され、広陽王元嘉が荊州刺史となると、李佐はその下で鎮南府長史となり、輔国将軍の号を加えられ、新野に駐屯した。孝文帝が凱旋するにあたって、李佐は帝の命を受けて沔北の守備を委嘱された。 499年(太和23年)、孝文帝が死去すると、遺勅により李佐は輔国将軍のまま行荊州事をつとめた。まもなく正式に荊州刺史に任じられた。宣武帝の初年、洛陽に召還されて都官尚書を兼ねた。501年(景明2年)、死去した。享年は71。征虜将軍・秦州刺史の位を追贈された。諡は昭といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李佐 (北魏)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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