|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 李 : [り, すもも] 【名詞】 1. (Japanese) plum 2. prune 3. prunus salicina ・ 元 : [げん, もと, がん] 1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 4. (2) former
李元祥(り げんしょう、生年不詳 - 680年)は、中国の唐の高祖李淵の二十男。母は楊嬪。 631年、許王に封ぜられた。637年、江王に徙封され、蘇州刺史に任ぜられ、実封八百戸を受けた。649年、実封は千戸まで加増された。高宗のとき、金州・鄜州・鄭州の刺史を歴任した。性格は貪欲で、金宝を蒐集し、利殖に飽きることがなかった。ときに滕王李元嬰・蒋王李惲・虢王李鳳らはみな貪欲暴虐であって、王府の官にある者はかれらを嫌って行きたがらず、「儋州・崖州・振州・白州に流されたとしても、江王・滕王・蒋王・虢王に仕えたくはない」と言っていた。元祥の体はたいへん大きく、腰帯は十人分の長さで、食事は数人分を平らげた。当時韓王李元嘉・虢王李鳳・魏王李泰もまた体が大きかったが、元祥には及ばなかった。また元祥は片眼がすがめであったと伝えられる。680年、世を去ると、司徒・并州大都督の位を追贈され、献陵に陪葬された。諡を安といった。 子に李・李皎・李昕・李晧・李炅・李晃・李暹の7子がいた。李は永嘉王に封ぜられ、復州刺史となったが、禽獣の行いがあったとして、処刑された。李皎は武陽王に封ぜられた。李昕は任国公に封ぜられた。李晧は義興郡公に封ぜられた。李炅は広平郡公に封ぜられた。李晃は鉅鹿郡公に封ぜられた。 == 伝記資料 == * 『旧唐書』巻64 列伝第14「江王元祥伝」 * 『新唐書』巻79 列伝第4「江王元祥伝」 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李元祥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|