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李 光洙(イ・グァンス、1892年3月5日 - 1950年10月25日)は朝鮮の文学者、思想家である。「朝鮮近代文学の祖」とも言われる。号は「春園」(チュンウォン、춘원)。創氏改名時の日本名は香山光郎(かやま・みつろう)。 == 経歴 == 平安北道義州府定州郡出身。10歳の時に両親をコレラで亡くす。1905年に一進会の留学生に選抜され、日本の大成尋常中学校を経て、明治学院在学中に小説の執筆活動を始める。帰国後、五山学校に赴任。一時シベリアを放浪するが、ロシア帝国の第一次世界大戦を受け帰国。日本に再留学し、早稲田大学に入学。その後、「二・八独立宣言」の起草に加わり上海に亡命、大韓民国臨時政府樹立に加わり独立新聞の編集長に就任する。帰国後、逮捕されるが起訴されず釈放される。その後東亜日報に就職。後に編集長に就任する。後に朝鮮日報に移籍し、同社副社長となる。 民族主義的な立場から儒教思想と因習を批判する啓蒙主義的な小説の執筆活動をおこなう。小説に留まらず東亜日報に「民族的経綸」などの論説を掲載し、朝鮮の亡国の原因は朝鮮民族自身の劣位性にあるとし民族の実力養成を説いた(民族改良主義と呼ばれる)。一方で、朝鮮総督府に対しては独立ではなく自治権などの権利拡大を要求した。これは一回目の転向とされ、後の植民地当局への完全な屈服の始まりとする評価がある。 1937年にで2度目の逮捕、収監(半年後釈放、1941年無罪確定)された後は植民地当局の圧力に屈服し2度目の転向を行い対日協力路線に転ずる。創氏改名の推奨に尽力し、自らも香山光郎と名乗った。また、のちに「親日文学」と呼ばれる日本語による創作も行い1940年3月には『無明』で朝鮮藝術賞を受賞している。第二次世界大戦中は朝鮮人が戦争へ積極的に参加するよう呼びかけた〔【その時の今日】侵略戦争参加督励した李光洙「民族のため親日」弁解 中央日報 2009年8月21日〕。 朝鮮解放後に収監され釈放後も親日派の烙印が押され、「李狂洙〔韓国語では“光”と“狂”は共に“”と書く。〕」などという蔑称まで付けられ作品の評価をうけることは少なかった。李承晩政権下では反民族行為処罰法により検挙・投獄されるが、法廷で彼は泰然自若とした態度で「私の親日は祖国の為のものだ!」と叫んだと伝えられている。また、「たとえ本道ではなく邪道だったとしても、私のとった道は祖国と民族の為の物であり、其のことも理解してもらいたい」と訴えたとも言われる〔。 朝鮮戦争中、朝鮮人民軍がソウルを占拠した際に北朝鮮に拉致され、その後、重度の凍傷に罹って1950年10月25日、人民軍病院で結核の悪化のため死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李光洙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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