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李 典(り てん、生没年不詳)は、中国の後漢末の武将。曹操に仕えた。字は曼成。兗州山陽郡鉅野県〔『資治通鑑』巻64には巨鹿の人であると記述されている。〕の人。子は李禎その他1名。『三国志』魏志に伝がある。 ==生涯== 謙虚な人物で、若い頃は武芸よりも学問を好んだという(『魏書』)。先生の下で『春秋左氏伝』を読み、様々な書物に目を通した。曹操は李典の振る舞いを好ましく思い、試しに人民を統治する職につけてみたという(『魏書』)。 従父の李乾は雄々しい性格で、食客数千家を擁して乗氏県にいたが、初平年間に曹操の挙兵に応じて馳せ参じ、寿張の黄巾賊との戦いや、袁術との争い、徐州征伐など、数々の戦いに参戦して、武功を立てた。 呂布が兗州で反乱を起こすと、曹操は李乾を乗氏県に帰還させ民心を落ち着かせようとした。李乾はそこで呂布の任命した兗州別駕の薛蘭・李封から帰順の催促を受けたが、断固として拒んだために、薛蘭・李封に殺害された。曹操は李乾の子の李整に後を継がせ、諸将とともに薛蘭・李封を追討させた。李整は兗州の諸県を鎮圧するなど武功を立て青州刺史までになった。李整が亡くなると李典が李整の軍を率いることになり、潁陰の令に転任し、中郎将に任命された。 当時曹操は袁紹と官渡で対峙していたため(官渡の戦い)、李典は一族と部下を引き連れ、食料・絹などを曹操軍に輸送し供給した。曹操が袁紹を破ると裨将軍(ひしょうぐん)に任命された。 袁紹の死後、曹操は袁譚と袁尚を黎陽に攻撃したが、李典に命令し、程昱と共に兵糧を輸送させた。袁尚は魏郡太守の高蕃に命じて水路を遮断させた。曹操は予め、水路を通ることが困難なら陸路を使うよう命令をしておいたが、李典は敵の状況を見た上でその命令を聞かずに独断で程昱と相談し、高蕃に急襲をかけてこれを打ち破り、水路を回復させた。 博望坡の戦いでも正史で活躍し、三国志演義では彼の活躍が目立たなくなっている。 鄴の包囲にも参加し、鄴の平定後高幹が壺関で挙兵すると楽進と共に討伐した。また長広の管承を楽進と共に破り、捕虜将軍に昇進、都亭侯になった。曹操から受けた厚遇に感動した李典は、乗氏から1万3000の一族郎党を魏郡鄴県に移住させた。この行為は曹操に喜ばれ、破虜将軍に昇進した。 208年、曹操は荊州征伐に向かう際に、司空掾属主簿である趙儼に章陵太守を兼任させ、さらに都督護軍に転任させた。これにより李典は、于禁・張遼・張郃・朱霊・路招・馮楷の6将軍と共に趙儼の統括下に入ることになった(「趙儼伝」)。 合肥の戦いの第二次戦役では張遼と共に孫権軍を迎撃し、100戸の加増を受け300戸となった。 李典は学問を好み、儒学の素養もあり、諸将と功績を争うこともなく、士大夫にも謙虚に接した。軍中においても称えられたという。 36歳の若さで病死し、愍侯と諡された。子の李禎が後を継いだ。 曹丕(文帝)が帝位に就くと、李典の功績を思い起こし、李禎に100戸が加増され、さらに李典の一子に関内侯と領邑100戸が与えられたという。 244年秋7月、曹芳(斉王)は詔勅を下し、曹操の霊廟の堂前の広場に功臣達を祭ったが、その中に破虜将軍李典も含まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李典」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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