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李 卓吾(り たくご、嘉靖6年10月26日(1527年11月19日) - 万暦30年3月16日(1602年5月7日))は中国明代の思想家、評論家。陽明学左派に属する。 原名は林 載贄(りん さいし)。後に姓を李と改める。また1566年、即位した隆慶帝朱載垕の避諱により「載」字を除き、李 贄(り し)と名乗った。号は卓吾(一説に字とも言われる)・宏甫・篤吾・龍湖叟。別号は温陵居士。 == 生涯 == 福建省泉州府晋江出身。現在の中国の歴史学者の研究では、回教徒ではないかと言われている。26歳の時に郷試に合格したが、進士とはならず地方官を歴任した。54歳で官を退き湖北省麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励んだ。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものである。その思想は陽明学左派(泰州学派)に属するが、それは官僚として各地に赴任した折、焦竑(しょうこう)や耿定向(こうていこう)・耿定理(こうていり)兄弟と親交を結び陽明学へと傾倒していったためである。その後王竜渓(おうりゅうけい)、羅近渓(らきんけい)といった王陽明の弟子に出会うことで、さらに李卓吾は思索を深めていった。 なお1599年、南京に赴任していた折りにイエズス会のマテオ・リッチと邂逅している。以後何度か会い、相互理解を深めたようだ。李卓吾はリッチの人柄や能力、その著作『交友論』に高い評価を下している。またリッチの方でも李卓吾がキリスト教に一定の理解を示したことや文学にも科学にも精通していると書き残している。 引退後に刊行した『焚書』には朱子学及びそれを信奉する道学者への厳しい批判が込められていたため、周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられた。李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きい。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。結局、迫害を逃れたさきの北京近郊で捕らえられた。そして獄中で自殺。享年76。 死後も弾圧は止まず、著作やその出版の版木は全て遺棄され、王朝が清朝に移り変わっても禁書目録にその著作は載せられることになる。また『明儒学案』にもその名は記されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李卓吾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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