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李 如松(り じょしょう、1549年 - 1598年)は、明代の武将。 遼東鉄嶺衛の出身で、字は子茂、諡は忠烈。遼東安定に多大な功のあった李成梁の長子。朝鮮からの移民の末裔であるため、鉄嶺市政府は朝鮮族、あるいは朝鮮族の末裔と公式見解を示している〔李成梁の故郷感情 中国鉄嶺市政府公式サイト〕。日本の研究者には朝鮮系中国人とも称されている〔田中俊明編『朝鮮の歴史―先史から現代』昭和堂、2008〕 万暦2年(1574年)に鉄嶺衛都指揮同知を父より世襲し、同じく万暦8年(1580年)に寧遠伯を一ヶ月遅れで世襲した。万暦12年(1584年)に山西総兵、翌万暦13年(1575年)に京城巡捕都督僉事、万暦16年(1578年)に宣府総兵を歴任した。〔和田和広「李成梁一族の軍事的台頭」1986年〕 万暦20年(1592年)のボハイの乱の鎮圧でも戦功を認められ、その直後に始まった文禄・慶長の役では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。朝鮮に入ると、万暦21年(1593年、文禄2年)1月に平壌城に拠る小西行長の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告し、平壌を回復した。更に李如松は撤退する小西軍を追撃したが、漢城へ進撃する途上での碧蹄館の戦いで小早川隆景、立花宗茂らの軍勢に敗れ、平壌に撤退した。その後、積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。9月には朝鮮軍務経略の宋応昌と共に李如松も帰国した〔北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』2012年、岩波新書、p98〕。慶長の役には参戦していない。 万暦25年(1597年)に東西虜10万により遼東静遠堡などが一週間に渡って侵略を受けたことに対応する為、鎮守遼東総兵官として王保の後任として着任し、太子太保を加えられた。翌万暦26年(1598年)年4月に李如松は城外で伏兵に遭って戦死した。「これと語れば、みな「娓娓精当」と評価されるほど傑出していたとされた。また万暦帝の信任が非常に厚く、その死は悲しみ悼まれ、死後に少保寧遠伯を追号し、謚を贈り、祠を建て、加葬営葬を命じ、子を取り立てて厚遇した〔。 == 系譜 == * 父 李成梁 * 叔父 李成材 * 弟 李如柏、李如楨、李如樟、李如梅、李如梓、李如梧、李如桂、李如楠。 (明史 李如松伝による) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李如松」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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