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李孝石(イ・ヒョソク、1907年2月23日 - 1942年5月25日)は朝鮮の小説家。号は可山。兪鎮午に「小説の形式で詩を吟じた作家」と評され、郷土の美しさを詩のような流れる文筆で描いた。その代表作が『ソバの花咲く頃()』である。 == 略歴 == 1907年2月23日、江原道平昌郡蓬坪面倉洞2区南安洞681番地に1男3女の長男として生まれる。父の李始厚は漢城師範学校出身で、京城で教鞭を執っていた。母、康洪敬は珍富の聖潔教会の功労者として知られていた。父の仕事のため、一時京城に住むも、5歳のときに再び故郷に戻り、私塾で漢学を学んだ。非常に物覚えのよい李は村人から神童と呼ばれるほどであった。6歳になると平昌に出て、江陵金家に下宿しながら平昌普通学校に通った。その後、京城第一高等普通学校(現・京畿中学校の前身)、京城帝国大学予科を経て、京城帝国大学法文学部英文科に進んだ。李が物書きを始めたのは京城帝大予科に在籍していた頃からだ。その頃、朝鮮人学生会「文友会」に加わり、「文友会」の機関紙『文友』と、予科の学生会誌『清涼』に詩を発表した。文壇に登場したのは『朝鮮之光』に掲載した短編小説「都市と幽霊」からである。実は、京城高普時代から匿名で作品を出しては原稿料を稼ぐ、文才豊かな青年であった。そうした原稿料はほとんど酒代に消えてしまったそうである。京城高普の1年先輩になる兪鎮午とも親しくなり、文壇でも華やかな存在であった。 若くして文壇で華やかな成功を収めた李であったが、京城帝大卒業後、不幸の時代が訪れる。京城帝大を卒業して1,2年仕事がなく、中学校時代の師に職の斡旋を頼んだところ、総督府警務局検閲係の紹介を受けた。旧師の紹介であったために悩んだ末、就職したが、李を知る者達は彼を裏切り者と糾弾するようになる。祖国の敵である日帝当局に協力する者は当時の人々にとって憎悪の対象であり、李にしても本意ではなかった。結局、1ヶ月ほどで妻の実家である咸鏡道の鏡城に引きこもった。鏡城農業学校で教鞭を執る傍ら、郷土を舞台にした小説を書き始める。1934年に平壌の崇実専門学校に赴任してから、本格的に執筆活動に取り組んだ。1936年に書かれた『ソバの花咲く頃』は李の代表作となる。1942年5月、病に倒れ、その月25日午後7時30分、息を引き取った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「李孝石」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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